鹿島から東京は、本当に突然でした。
10月の始めだったと思います。
突然、工場の人事課に呼ばれ、大阪で、子会社の日本メディコの社長に会ってくれというのでした。
たしか月曜日に命令され、水曜日に日帰りだった記憶があります。朝早く、滋子さんに笹川まで送ってもらい、鹿島線で両国まで、それから東京。新幹線で午後2時ぐらいに大阪。
大阪の人事部に出頭すると、人事課長から、日本メディコと言う会社と社長に関して簡単なブリーフィング。それから、三上さんに紹介されました。
それが、三上さんそして医療業界への扉でした。三上さんは私の生涯の師の一人であり、私がこの業界の仕事をするよう運命付けた人でもありました。
三上さんは、医療のことを熱く語られ、ビジネスマンというより学校の先生という感じでありました。事実氏は、会社を立ち上げる前は、高校の英語の教師で会ったそうです。
そして、私の先生でもあり、私はというとやはり不肖の教え子だったのでしょうか。

6時ごろの新幹線で東京にとんぼ返り。10時ごろが両国から銚子への最終だったと思います。
その列車に乗って、家路を急いでいた折、開発課の課長と偶然乗り合わせ、私の転勤の話をすると、その課長は、今本社は大変で、今後大きなリストラを行うようであり、工場の人事は工場長の所管でなく、すでに本社人事となって、自分の部下も守れなくなったと憂いていたのを思いだします。今思えば、私はリストラの第一号だったのかもしれません。
いずれにしろ、鹿島の田舎、というより僻地から、東京暮らしが始まるのでした。
滋子さんにとっては、本当に大変な人生の転機だったと思います。
長年過ごした岡山から、見知らぬ鹿島。不便さにもなれ、幹子もよちよち歩き。子育てに充実していた生活から、まったくの都会暮ら