こどもが母親にお小遣いをねだると、母親は、しぶしぶお金を渡しながら、「無駄遣いしないでね」と決まり文句。
親になってからは、当然のごとく受け取るから、これまた癪に障る。無論自分のこどもだから、そんなに気にしない。でもわが子はあまりお小遣いをねだられた記憶がない。きっと母親にねだっていたのだろう。親として距離が遠かったのかなと少し心配である。
しかし、自分が親になって、娘は狡猾になり、孫たちにいろいろねだってくる。
娘も嫁ぎ先で気苦労しているのだろうと思うと、あまり肩身の狭い思いをさせてはと言うなりになるしかない。人質をとられているようなものである。

さて、無駄遣いの話
所詮人間は無駄遣いをする。 自分が稼いだ金であれ、もらった金であり。
文明自体が無駄遣いの集積である。世界中におできの後ように残っている遺跡だって、世界文化遺産といわれても、多くはその当時の為政者が民を酷使して作らせたお墓であり、宮殿であり、妾宅であったりする。無駄なものである。
しかし、残しておきたい遺産である。その当時の技術力と文明の結晶である。文明という無駄は犯罪行為であるとしても、時効になったとき、文化といい、保釈されるのかもしれない。
いずれにしろ無駄あるいは無駄遣いは人間の本能だと思う。その他の動物は決して、無駄な捕食はしない。
猫がねずみを取るのは、自然だが、よく捕まえて、ねずみをなぶり殺しをしているのは、本能というより、人間社会に同化してきているせいだと思っている。
さて、霞ヶ関の皆さん、税金を集めるだけ集めて、無駄遣いをするのは、非常に本能的かもしれない。
ここ数日のテレビで、民意 民意ということばは聴くけれど、本能、本能ということばは聴かれない。
霞ヶ関の皆さん、少し、ほんの少しの勇気でいいので、振り絞って、無駄遣いは本能なのだとアナウンスしてみては。理解を得られるかどうかは別として、正直ではいられますよ。