結婚式は極々ありきたりでした。父が手配してくれました。結婚旅行の手配もです。
本当に何もしませんでした。鹿島で、会社の厳しさを交代勤務の中で教え込まれました。
滋子さんは、何かと父と相談して計画したのでしょう。実家は父親がいないことと、母親はあまり細かいことが出来なかったようです。本当のことは分かりません。
私はというと、前前日まで、交代勤務を行い、岡山に帰省しました。会社は遠距離だったのと入社したばかりで、配属が決まったところでしたので、あまり負担を掛けないよう、祝電とお祝いをお願いしました。
結婚式には、大学の悪友。司会は同じ学部で真面目だった大矢君。他の同じ学部の友人は、結婚式後に名古屋に途中下車し、後輩の下宿で皆で祝ってもらいました。
結婚式に出てもらったのは、遊び仲間3名。まったくいいかげんな人選でした。
クラレの同期の友人は、連絡だけにしていました。
結婚式は結婚式です。
息子と娘の結婚式に出た折、父の気持ちが少し分かりましたが、その当時は早く終わってほしいという気持ちでいっぱいでした。晴れがましいのは何時になっても苦手です。
仲人は私と滋子さんの中学時代の恩師、竹原先生。いまでもお世話になっています。
新婚旅行は、岡山駅から宇野線で宇野、高松(二人にとって思い出の地です)、そして高知でした。
途中宇野駅から宇高連絡船に乗り込もうとしたら、岡山と倉敷に赴任していた同期の皆がお祝いに来てくれました。本当にうれしい思い出です。
そうそう、あの当時はプラとフォームで胴上げというのが、新婚旅行の見送りの定番でした。しかし、汽車の発車時間が6時。丁度会社員の帰宅時間。通勤客に混じって、新婚旅行の出発でした。
思い出そうとすると、次から次へと湧き出てきて、書ききれません。
あまり長くなると、冗漫で読み飽きると心配。
このつづきは週明け。