結婚前は、本当に会えなかった。夏休み帰省した。1週間程度だと思うが、記憶は不確か。当時私は実習で交代勤務を行っていた。工場はイソプレンという炭化水素(炭素と水素の化合物、一番簡単なのが皆さんご存知のメタン、エタン、プロパン、ブタンそしてイソプレンである。)の製造工場で、24時間営業である。当時人で不足からか、3組3交代のシフトであった。一日を3等分すると、8時間。朝8時から4時まで、これを朝晩といい、4時から12時までを夕番、12時から8時までの徹夜を夜番といった。そうすると、休みがないことになる。ある組が休むとすると、その代わりに、一日を二つに分けて、朝8時から夜8時までそして残りと2交代となる。
本当に過酷な労働条件であった。
その代わりに給料も良かった。当時の初任給が5万円程度のころ、13万円程度もらっていた。でも茨城の鹿島では使う場所もない、また暇もない。
そんな寮生活のなかで、滋子さんとの電話と手紙が本当に楽しみでした。
当時の私が、鹿島工場を勤務地として希望したのは、繊維会社に入って、繊維工場を実習して、封建的、閉鎖的環境になじめなかったからでした。もうひとつは当時オイルショック前、ブラジルでイソプレン工場の技術移転計画が進んでおり、鹿島へ行けば将来ブラジルで仕事が出来るという浅はかな希望からでした。

化学工場は、夏季に1ヶ月操業を停止して、施設のメインテナンスを行います。こうした折、交代勤務ラインは、通常勤務となり、日ごろ休みが取れないことから、夏休みをとるわけです。
そして新人である私も1週間休みが取れたわけです。
一目散に帰省しました。東京へたどり着くのも大変。寮から小見川駅までタクシー。小見川から総武線成田線で、一路両国へ。それから、総武本線でふた駅、浅草橋、秋葉原。
山手線に乗り換えて、神田、東京にたどり着くわけです。そして、新幹線で岡山。
あまり覚えていませんが、長い道のりでした。
帰省して、何をしていたか殆ど覚えていませんが、ひとつは前回のヒッチハイク事件。もうひとつは、滋子の父親の墓参りでした。
滋子の父親は、中学生のころ、脳出血でなくなったそうで、滋子さんの今の病気は遺伝かもしれませんね。
義父の墓には、その折行ったきりですので、あまり覚えていませんが、岡山市の北に半田山という小高い丘があり、その中腹にありました。急な坂を登りながら、振り返ると、長年住んでいた岡山が一望できました。ふと、鹿島のことを思い描きました。
この地方都市、住み慣れた町から、僕は滋子さんを遠く離れた僻地へ連れて行くのかと思うと、すまないなあという気でいっぱいになりました。
あれから30数年。滋子さんは、妻になり、母になり、おばあちゃんになり、岡山から遠くはなれた千葉に住んでいます。東京と千葉が第2の故郷であり、娘、息子には岡山は本当に遠い存在になっています。今でもふとあの半田山から見た岡山の俯瞰を思い出します。
もしかしたら、あれが本当の意味でふたりの岡山から good byだったのかもしれません。