昨日の夜、マスコミというより報道関係の人と、有楽町で一献を傾けた。話は救急ヘリの話から防災の話へと、尽きない話題を楽しく話をした。
その中で、10数年前の神戸の震災の話に及んだ。
当時、私の妻の姉が長田区に住んでおり、被災から5日目に現地に入った。
私自身、当時大規模災害の対策を有志で研究していた経緯から、被災現場をこの眼で実感したいという気持ちもあり、大阪へ向かった。
梅田について、まずびっくりしたのは、大阪がまったく平常どおりであり、一体どこで地震があったのかという感じであったことである。
とりあえず、神戸に入ろうと思っていたが、ルートが わからない。直感で神戸の裏から入れば新神戸まではいけるのではと思い、三田までのキップを買い、電車に乗った。三田から神戸電鉄で谷上、それから新神戸に入った。新神戸の駅は坂の途中にあり、三宮まで坂道を下ることになる。町の景観はさして変わらなく、さすがに、人や自動車は少ないなあと感じた程度であった。20分程度歩き、三宮に着き、長田を目指そうとしたとき、目の前の景色に何か違和感を覚えた。ふと立ち止まり、上を見ると、建物が明らかに傾斜していた。気がつくと向かいの建物は一部崩壊していた。
その後、長田への道のりの間、多くの建物が崩壊し、その惨状は今でも覚えている。
長田へ着いたおり、まずびっくりしたのは、崩壊した家屋の廃材のボリュームである。2階建ての建物は、やはり2階建て分あり、数メートルも廃材の山が綿々と続いていた。
あの崩壊の凄まじさは今でも忘れない。
勿論人のつながりやその人の人生さえ崩壊させたケースが多々あったのだろう。数年はニュースバリューがあり、我々もテレビを通じて目にしたが、ニュースで届かない多くの悲劇と復活があったのだろうと察する。
今、新潟で地震被災の復興とさらに再生、将来のビジョン作りのお手伝いをしている。
報道関係の人とはそのために会っている。
被災から復興、なみたいていの努力では出来ない。幸いこの自治体は以前から村長を中心に、再生計画を目指していた。被災で一瞬萎えたこの計画が昨年末から復活し、今新しい骨組みで動こうとしている。
今年はそんな年である。
阪神大震災から何年?この質問にも、簡単に答えられるひとは、地元の人以外ではそんなに、簡単な質問ではない。風化しているのではなく、あの惨状が、今でも近くにあるからだと思う。思いたい。 忘れたくない光景である。
長田へ行く途中、酒屋がオープンしていた。店の片付けに大忙しそうであった。見ると、ビールを無料で配っていた。親戚に少し飲んでもらおうと、店に入り、ビールを2本もらった。何故、地震のあと、こんなに早く開いているのと聞くと、こんなとき、酒でも飲まなきゃいられないでしょう、とおばちゃんが答えてくれた。ごもっとも。
どんなときでも、こんな簡単な本音に妙に納得し、あったかさを感じる。
今度の新潟のプロジェクトもこんな本音で計画を作って生きたい。
店を出て、有楽町の灯りの下。
オイルショックの時、このあたりもうすぐらかったな。
ふと彼がそうつぶやいた。今年60歳になる報道人である。
そうですね。私が大学を卒業したときですから、35年前ですか。と答えると、うなずきながら、春の夜空を再び見上げた。
春の宵である。
その中で、10数年前の神戸の震災の話に及んだ。
当時、私の妻の姉が長田区に住んでおり、被災から5日目に現地に入った。
私自身、当時大規模災害の対策を有志で研究していた経緯から、被災現場をこの眼で実感したいという気持ちもあり、大阪へ向かった。
梅田について、まずびっくりしたのは、大阪がまったく平常どおりであり、一体どこで地震があったのかという感じであったことである。
とりあえず、神戸に入ろうと思っていたが、ルートが わからない。直感で神戸の裏から入れば新神戸まではいけるのではと思い、三田までのキップを買い、電車に乗った。三田から神戸電鉄で谷上、それから新神戸に入った。新神戸の駅は坂の途中にあり、三宮まで坂道を下ることになる。町の景観はさして変わらなく、さすがに、人や自動車は少ないなあと感じた程度であった。20分程度歩き、三宮に着き、長田を目指そうとしたとき、目の前の景色に何か違和感を覚えた。ふと立ち止まり、上を見ると、建物が明らかに傾斜していた。気がつくと向かいの建物は一部崩壊していた。
その後、長田への道のりの間、多くの建物が崩壊し、その惨状は今でも覚えている。
長田へ着いたおり、まずびっくりしたのは、崩壊した家屋の廃材のボリュームである。2階建ての建物は、やはり2階建て分あり、数メートルも廃材の山が綿々と続いていた。
あの崩壊の凄まじさは今でも忘れない。
勿論人のつながりやその人の人生さえ崩壊させたケースが多々あったのだろう。数年はニュースバリューがあり、我々もテレビを通じて目にしたが、ニュースで届かない多くの悲劇と復活があったのだろうと察する。
今、新潟で地震被災の復興とさらに再生、将来のビジョン作りのお手伝いをしている。
報道関係の人とはそのために会っている。
被災から復興、なみたいていの努力では出来ない。幸いこの自治体は以前から村長を中心に、再生計画を目指していた。被災で一瞬萎えたこの計画が昨年末から復活し、今新しい骨組みで動こうとしている。
今年はそんな年である。
阪神大震災から何年?この質問にも、簡単に答えられるひとは、地元の人以外ではそんなに、簡単な質問ではない。風化しているのではなく、あの惨状が、今でも近くにあるからだと思う。思いたい。 忘れたくない光景である。
長田へ行く途中、酒屋がオープンしていた。店の片付けに大忙しそうであった。見ると、ビールを無料で配っていた。親戚に少し飲んでもらおうと、店に入り、ビールを2本もらった。何故、地震のあと、こんなに早く開いているのと聞くと、こんなとき、酒でも飲まなきゃいられないでしょう、とおばちゃんが答えてくれた。ごもっとも。
どんなときでも、こんな簡単な本音に妙に納得し、あったかさを感じる。
今度の新潟のプロジェクトもこんな本音で計画を作って生きたい。
店を出て、有楽町の灯りの下。
オイルショックの時、このあたりもうすぐらかったな。
ふと彼がそうつぶやいた。今年60歳になる報道人である。
そうですね。私が大学を卒業したときですから、35年前ですか。と答えると、うなずきながら、春の夜空を再び見上げた。
春の宵である。