しばらくぶりに四谷三丁目にでる。理由は簡単で、土曜日のテレビで四谷3丁目というより荒木町がでていて、つい懐かしくて食事にでた。
荒木町は、外資系会社が信濃町にあったおり、よく飲みに出かけていた。特に最初の2年間英会話の学校に行ってた折、よくレッスンの後、先生と連れ立って出かけた。その当時IBMの人たちと一緒だった。たしか1年ぐらい英会話に通ってたときだと思う。1年通って、あまりうまくならないので、先生にクレームをいったおり、それならと、この食事会はすべて、英語ということになった。最初は日本人同士で英語で話すのに抵抗があったが、いつのまにか自然となった。損後、英会話学校から卒業(?)していき、離れ離れになったが、四谷3丁目から離れられなかった。
妻が入院してからは、ご無沙汰していた。
食事の後、よく通った店がジャズクラブである。
たまには、、、、と思い、階段を下りていくと、ドス黒い顔のオジサン。「え、宮本さん」 十年ぶりである。先代のマスターである。聞くとオーナーの要望でで戻ったそうである。
65歳のサーファーである。現役である。詳しくは何も知らない。ただダイヤモンドクラブでジャズを楽しんでいた頃の名物マスターである。
バーボンを片手にひとしきり、懐かしんだ後、帰路についた。
また四谷三丁目が近くなった。
荒木町は、外資系会社が信濃町にあったおり、よく飲みに出かけていた。特に最初の2年間英会話の学校に行ってた折、よくレッスンの後、先生と連れ立って出かけた。その当時IBMの人たちと一緒だった。たしか1年ぐらい英会話に通ってたときだと思う。1年通って、あまりうまくならないので、先生にクレームをいったおり、それならと、この食事会はすべて、英語ということになった。最初は日本人同士で英語で話すのに抵抗があったが、いつのまにか自然となった。損後、英会話学校から卒業(?)していき、離れ離れになったが、四谷3丁目から離れられなかった。
妻が入院してからは、ご無沙汰していた。
食事の後、よく通った店がジャズクラブである。
たまには、、、、と思い、階段を下りていくと、ドス黒い顔のオジサン。「え、宮本さん」 十年ぶりである。先代のマスターである。聞くとオーナーの要望でで戻ったそうである。
65歳のサーファーである。現役である。詳しくは何も知らない。ただダイヤモンドクラブでジャズを楽しんでいた頃の名物マスターである。
バーボンを片手にひとしきり、懐かしんだ後、帰路についた。
また四谷三丁目が近くなった。