価値
年の瀬に、忙しいのに。
つまらないことを考える。
人間の価値、
値段は何で計れるのだろう。そもそも計るのではなく、量るである。
女性に顰蹙を買うかも知れないけれど、女性の価値というところで、昔ある女性から聞いたところでは、付き合っている男性が、連れて行ってくれる店の格と請求書の額で、その男性が付き合っている女性の価値をつけているかわかるといっていたっけ。至言である。紳士諸君決して、請求書は女性にみせないこと。
これは男性が考えていることではなく、女性が判断していること。やはり女性は現実的である。
クリスマスのプレゼントが、年々男どもの収入に合わない分不相応になっていくのも理解できる。
結婚すると、女性は男の財布も自分の財布と理解するようで、レストランやプレゼントの額で判断することはなくなるようである。
むしろ自分の価値にはまったく頓着なくなり、旦那の価値に目を向けるようになる。
どの程度お金を家にもって帰ってくるかである。
これは、石器時代から、女性が火を守り、男が狩猟に出かける形態から変化はないようである。
かつて、私の社長であり、師であったM氏は自分の給料は男のプライドである。会社を代わっても、給料は下げるなと忠告をもらった。爾来この忠告は守っていた。
もっとも、子供が成長し、独立してからは、夫婦二人なので、あまりこのことに執着していない。
でも、若いとき、転職、独立と繰り返す折、この忠告は大事にしてきた。
以前、サラリーマンの生涯収入は
1億6千万円といわれていたが、今は3億円を越えているのだろうか。格差はかなりあるのだろう。
転職をするのと、一生同じ会社にいるのとでの収入の差は、断然一生同じ会社にいたほうがよかった。今はかなり差が縮まっているだろう。
今手元に源泉徴収の紙があり、今年1年の成績がある。
大阪弁で
われなんぼのもんじゃ
という喧嘩の売り言葉、買い言葉がある。大阪では、喧嘩に人の価値まで飛び出す。
東京では、きっと肩書きが出るのであろう。
少し、横道にそれたけど、人間の価値を奇麗事で言うなら、もっと慰められることばがあるのかもしれないけど、見つからない。
私が、聖書のように愛読しているイギリスの自然学者ライオネル.ワトソンの生命の潮流という著書に、生命はどのようなメカニズムで、発生したのかという難問にひとつの解析を行っている。
その中に一貫して流れている思想は、From Where To bWhere である。
生命すなわち人間はどこから生まれて、そしてどこに行こうとしているのか  大きな地球というスパンのなかで、人の価値を模索しようとしている。
ここまで、広げると、我々の慰めになる人間個人の価値が見出せて、慰めになるかもしれない。
いずれにしろ、年末押し迫って、何を考えているのかとお叱りを受けている。

でも、諸君
地球はそれでも回っている。
だそうである。