共産主義時代のロシアのジョーク。
モスクワ市内を歩いていた男、街角に長い人の列。何か配給があるのかと、列に並ぶ。
待てど暮らせど、列は動かないし、後ろにながい列ができるだけ。たまりかねて、男は前の人に、何の配給かと聞くと、前の男いわく、さあ、列が出来ているからならんでいるだけとの答え。
当時のロシアは配給制の時代。
品不足で、配給を受けるには、長い列をならんで長時間待っていた時代のジョーク。笑うに笑えない話です。
最近のロシアはわからないけれど、ロシアのスーパーマーケットで買い物をするとき、びっくりする経験をした。陳列ケースのなかのネクタイだったか、サスペンダーだったか、選んで、気に入ったので買おうとすると、店員が紙の切れ端みたいなものに、金額を書いて渡してくれた。早速支払おうとすると、首を振って、場所を指差す。意味がわからないので聞きかえすと、どうやら、会計場所を指差している。つまり、まずこのメモを持っていき、金を支払えということらしい。早速支払をすませると、くだんの紙に支払のスタンプを押してくれた。それをもって、店員のところへ行くと、すでに品物を包装してくれて待っていた。便利なのか不便なのかまったく判らない。
話をもどして、列をつくって、並ぶということは、我々日本人にとっても、あまりいい印象や経験はない。さすがに私の年齢では、子供のころもたべものをもらう為に並んだ経験はない。お米は配給制で米穀通帳は知っている。東京へきて、びっくりしたのは、当時会社が日本橋高島屋のとなりのビルにあったことから、昼食に列を作って待たなければならないこと。
電車やバスにのるのも列をつくってならぶ。面白いのは、当時総武線で通っていたのだけれど、秋葉原はきちんとした列。浅草橋はホームがせまかったせいか、列が出来ない。両国は列ができていた。しかし、錦糸町、亀戸、平井、新小岩とくるともうだめ、列はなく、列車が止まり、ドアが開くと、そこに殺到した。でもバス停にはきちんとした列ができていた。
ここ最近、電車やバスを待っていると列が出来ない。列が出来ないというより、できるだけ人と離れた場所にいようとしている。バス停で待っているひとと人の間隔が異常に広いとか、バス停の周辺に立って、バスが近づいてくると、あわててバス停に近寄ってくろとか。
バス停で列をつくって並ぼうと、先に来ている人のそばに近づくと、じろっとにらんだりする。みんながみなではないのだけれど、どうも近づかれるのがいやのようだ。戦中戦後、軍国主義を経験したり、焼け跡の配給時代と列をつくることのいやな体験をひとなら理解できるのだけれど、、、。
どうしてなんでしょうか。
朝バス停やプラットフォームできちんとした列をつくって並んでいる光景は決して、ロシアの悲惨な時代や戦争体験を喚起しないし、、、、。

折り目正しいという日本語があります。バスや電車の車内で、姿勢をきちんとした端正なお年寄りをみていると、この折り目正しいという言葉を連想します。
我々日本人は、どういう経験から列をつくってきちんとならぶことをきょひしたのでしょか。もしかしたら、何かをうしなったのでしょうか。