当時の台北は、駅の前面、中山公園方面を中心に栄えていました。
大通りが、中山路(孫文の字が由来)、中正路(蒋介石の字が由来)であり、商店街が中華路とわりとわかりやすかった記憶があります。これは他の地方の主要都市台中でも同じだった記憶があります。
台北駅から中華路へ線路沿いに行くと、円環(マル)公園という屋台村があり、台湾の食文化が人目でわかる場所がありました。その中華路を下ると、ロータリーがあり、そこにまた大きな繁華街(映画館などの歓楽街)があり、今日世界という名前でした。
さらに、龍山寺(ロンサンス)あたりに、公式な色町がありました。夜行ったことはありませんが、昼間行ってみましたら、それらしき家には、ピンク色の地に金色の文字で、縁起のよい文字なんでしょうか、富とか、春とかの文字がかかれた札が張ってありました。たくさんお客に来てほしいという意味でしょう。後日日本の台湾の人が経営している店で、同じような札を燃やして、家業繁盛祈願を行っている光景をみて、懐かしく思いました。
さて、台北でほうりだされた私、まず宿探し。初日だから、あまり怪しげなホテルはまずいと思い、駅前のホテルをまず探しました。台湾のホテルはxxx大飯店と称していましたが、とにかくガイドブックも持たずに行っていますから、そんなことも知りませんでした。
駅前にやたらにレストランが多いなあと思っていました。ランクが下がると旅荘とか旅社(不確か)があり、標準冷気開放とありました。これは単に窓有りという意味で、冷気開放というと扇風機付きでした。いずれにしろ、まともなホテルがないので、テクテク中華路を歩き、今日世界まで来ると、大飯店の文字とHotelの看板。やったレストラン付きホテルを見つけたとほっとし、早速値段交渉。とにかく、お金を持っていません。初日ですから、贅沢はできないので、とにかく粘って交渉。やっと妥結し、というより根負け。最初の1敗。
へやに入って、ぐったり。シャワーを浴び、もちろん水浴び。少し休憩。のつもりが熟睡。気がつくと夜10時。
大飯店がホテルと合点しましたので、折角だからと外へ食事に。今日世界へ。ここでまた困った。大飯店がレストランと思っていましたから、レストランはなんというのだろうと困惑。聞くのはいやだから、とりあえず看板をみながら、それらしきものをさがしました。当時フルーツパーラーがたくさんあり、これはオープンスタイルだから、入りやすいので、まず水分補給に入りました。当時のメニューは、果物、果汁、そしてカキ氷みたいなものが中心だったと思います。そのほか、可口可楽(コカコーラ)百事可楽(ペプシコーラ)もありました。
とりあえず、漢字で判る西瓜水を注文。台湾の夜風。日中のほてりが徐々に取れてきた頃、西瓜ジュースは本当に体中を潤し、やっと異郷の地、台湾にいるのだと感じました。さて、食事は。ツァイ(漢字を覚えていません)館という名前がそれらしいので、入ってみました。ビンゴ。早速メニューをもらい、注文を。これでまた困った。まったく判らない。チャーハンだけは判るので、仕方なく、それらしいものを頼み、それらしいものが出てきて、ほっとした覚えがあります。どんなチャーハンだったかまったく記憶なし。食事を終え、再び今日世界。12時近いのに、さらに多くの人でごったがやしており、南の国は本当に夜は長いと痛感。
15年後、妻といっしょに台湾へ。この旅行と同じルートを旅しました。
台北も様変わり。街の中心は駅の反対方向に広がり、最近はさらに変わってきているとのこと。円環公園も今はなく、中華路もかつての反映もなく、今日世界は、薄暗くなり、
人通りもまばらでした。
当時ミニスカートが流行しており、台湾の若い女性もミニスカートが多かった記憶があります。しかし、下着のミニスカート用がなく、ミニスカートの下から下着がはみ出していたのを妙に覚えています。
1968年、当時世界はベトナム戦争真っ最中。台湾は反共政策。長髪は禁止。日本の書籍もガイドブック程度は問題ないとしても、反米、共産主義的な内容がある本を持ち込めば、没収され、数日間留置されたようで、旅先であった同類からも同じような情報が入りましたので、本当だったのでしょう。
夜更け2時ごろホテルへ帰還。ベットへもぐりこみ、熟睡。