娘が夫婦で沖縄へ。マイレージを貯めて、家族旅行とのこと。沖縄へは16年ぐらい前に行ったのが確か最後。でも私は沖縄が日本へ復帰する前の沖縄を知っていますよ。だからどうだといわれると、困るが、とにかく知っているのだ。
沖縄が日本に復帰したのは、私が21のとき、もう36年もたってしまった。
20のとき、台湾へ行くことになった。衝動的な旅である。
私が大学へ入学した年は、丁度東大紛争の時。とにかく1年生は、ストばかりでほとんど大学で授業を受けていない。おかげで、大学は授業を受けなくてもよいという潜在意識を植え付けられ、この潜在意識を打破するのに、4年かかり、勉強しようかとおもったら、卒業前であった。
それはともかく、夏休み、恒春(台湾南部の街)で、三菱化工機が作った排煙脱硫装置の実習に来ないかという誘いにまんまとのり、6月から2ヶ月くらい、工事現場でバイトをして、旅費を作り、意気洋洋と出かけた。
といったものの、友人と遊びすぎて、旅費が足りなくなり、飛行機から陸路、海路に変更することになった。岡山(生家)から国鉄(今JR)で西鹿児島まで16時間の旅。それから琉球海運で20時間の船旅、那覇。それから24時間かけて宮古島を経由して、台湾基隆(キーロン)までの長旅。
当時、外貨は今のように持ち出し自由ではなく、500$(800$だったかも)しか持ち出しできなかった。とはいえ、1$360円の時代だから、大金である。6畳の下宿代が5000円ぐらいで、バスが25円の時代だから、やはり大金である。
当時沖縄に行くには、ビザが必要。2、3日の滞在には、トランジットビザが発行された。沖縄の通貨は当然US$。バスの初乗りが15セント(54円)程度だったと思う。
西鹿児島でテープと涙の別れをして、種子島、屋久島を左に見て、徳之島、与論島を過ぎると、沖縄北端の辺戸岬。最もこのあたりは夜中か未明で、こちらは白河夜船。
沖縄の西側を見ながら、といっても見た記憶はない。見えるはずである。那覇市 泊港に着く。外国であった。日本語をしゃべる外国であった。幸運なことに、船旅で隣にいた30歳ぐらいの女性。私と同じ名古屋、最も私は大学が名古屋というだけ。彼女は名古屋で美容院に勤めているとのこと。家はコザ。もっとも、コザは美里町と合併し、沖縄市となっている。不確か。でもやはり私には嘉手納基地とコザである。
お決まりの「那覇にとまるところあるの」という問いかけ。
「いえ」これもお決まり。彼女の友人が那覇にいるから、泊まりなさいとうれしい提案。
若かったのですね。喜んで、泊まりに行きました。
当時、沖縄の家は、板の間が多く、よほどの金持ちでないと畳はしいていませんでした。したがって、寝るときは、板の間にシーツに包まってねておりました。背中が痛くてなれるのに一苦労。沖縄市内には、銭湯がありましたが、まさに池で、地面に穴を掘ってい、モルタルで固めたもの。板の間で服を脱ぎ、池で一風呂浴びると、体はほんのり桜色。まさに金魚。
夜は彼女が勤めていたバーにご招待。当時は米国人専門の高級バーと沖縄の人が楽しむ庶民バーがあり、バーというよりバラックだての長屋があり、小さなバーが軒を並べている景色でした。もしかしたら、戦後まもない日本の盛り場がこんな風だったのかと想像したものです。当時我々が飲める酒は、日本酒かビールとウィスキー。サントリーとニッカが庶民的なウィスキーを発売し、値段が手ごろなのでこれが普及していた時代でした。
サントリーがレッド、ニッカがハイニッカ。学生の手が届かないブランドが角であり、通称ダルマといわれたオールドです。その上に、名前しか聞いたことがないお酒が洋酒であります。
当時は、ジョニーウォーカーの黒ラベル、赤ラベル、そしてホワイトホースなどのブランドがありました。そして、ブランディーとして、ヘネシーやレミーマルタン。いずれにしろ名前だけ。見たことはありませんでした。そのお酒が目の前に、しかもボトルで。
これが沖縄の最初の夜であり、洋酒との出会いでした。
当時エチルアルコールにウィスキーのモルトを申し訳ない程度混ぜた和製ウィスキーしか飲んだことがありませんでしたので、この口当たりがいいウィスキーは、まさに至高の味。
沖縄は南の島。ほろ酔い気分の海風は心地よく、当時の繁華街は波の上、ふらふら散策すると、こころときめく景色がいっぱい。
当時は本当に若かった。連れの二人の女性に遠慮して、横目でちらり。そしてドキッ!!!。いずれにしろ、南の国は夜が遅く、明け方まではしゃぐ。
続きます!!!!!