当時のボスニアはユーゴスラビアに強制的に統一国家となっていたわけですが、長年の平和な日々を経て、ボスニア人、セルビア人そしてクロアチア人は隣同士の近所付き合い、あるいは会社内での融和が図られてきており、それぞれの宗教的行事にはお互いに招かれたり、招いたりの日々との事でした。
それが、内紛。隣同士が銃を持って打ち合うことに。何千人のひとが、戦火の渦のなか。
平和維持軍が介入し、強制的に握手をさせられ、欧米からの援助という砂糖をなめさせられ、懐柔。
それが何を生み出したのか。
セレナさん。
「あの内戦前までは、ボスニア人セルビア人お互いに仲良く暮らしてくらしていました。友人もたくさんいました。」
「でも、親戚を殺され、この手で彼らを殺し、」
「今、同じ役所の事務所で隣の席に座って、」
「私たちは何を話したよいのか、わからない状況です。」
「心のわだかまりが取れるのにいったい何年かかるのでしょうか」
ふと気がつくと、セレナさんの目に涙。
内戦中埋められた地雷を除去するのに、今後30年から50年かかるという。
その間子供たちは、地雷注意のテープで囲まれた土地の間を通り抜けながら、学校に通う。
内戦後地雷の被災はなくならない。被害者は成人と子供。
学校では、地雷のことを勉強している。その子が大きくなって、自分の子供たちも同じ授業を受けるのだろう。きっとそのころ、何故地雷が埋められたのとき、子供たちは大人に質問するだろう。
なんと答えるのだろう。
戦後60年以上たった日本でも、戦争は物語の中ではなく、現実の世界。
セレナさんの涙は、親戚をなくした悲しみの涙ではなく、親戚を殺した友人を、もう一度愛さなければならない悲しみである。
ボスニアで思い出すのは、あの涙である。