明日、入院してブログも出来ないでしょうから、今回で一応の終わりにします。最後は、天下分け目の関ヶ原の闘いです。
関ヶ原は、美濃の戦場、上田城の闘い、九州戦線と3つの複合戦線です。
黒田如水も真田昌幸もまさか1日で石田三成が負けるとは思わなかったでしょう。
美濃の戦場も、小早川の裏切りがなければ東軍も危なかったのです。
布陣だけなら、西軍が優勢でした。
この闘いは、戦場以前に勝負はついていました。
石田三成と徳川家康の差がありました。
石高にしろ官位にしろ、家康の方が遥かに勝ります。西軍は、烏合の衆ですが東軍は三成憎しで団結しています。
この闘いが無ければ、徳川幕府の成り立ちが遅れました。
家康としては、どうしても必要な闘いでした。
逆に、三成にしてみれば開戦を急ぐ理由は無かったのに、どうして急いだのかも疑問が残ります。
西軍は、最初から疑心暗鬼でした。
大谷吉継は、最初から小早川の裏切りを予想していました。
石田三成の最大の欠点は、人を見る目が無かった事と人の好き嫌いが有りすぎた事です。
同じ豊臣譜代でありながらも、尾張北の政所派と近江淀殿派を作ってしまいました。
秀吉の側近で、財務官僚を勤めていたから外様の毛利や島津も懇意にしていました。
小早川秀秋は、三成の讒言で減俸されたのを寧々がとりなして助けられているのです。
しかも、兄である秀次は淀殿派の陰謀で殺されているし、自分も本来は豊臣なのに、小早川に養子に出されてしまいました。
戦に勝てば、関白にしますと三成が言っても信用出来ないでしょう。
家康にしてみれば、闘う前から小早川の裏切りと毛利の不戦は分かっていましたから、勝ちは見えていました。
唯一怖いのは、島津の動きだけでした。
仲仙道を進む秀忠が来るまで待っても良いゆとりがありました。
この闘いの価値を誰よりも家康は知っていました。
勝てば天下が手に入る。
しかも、敵の作戦は逐一入手できる楽勝パターンでした。
1日で、東軍が勝ちました。
三成、小西行長などは斬られました。
真田昌幸は、局地戦では勝ちました。
真田信之が岳父の本多忠勝や榊原康政に口添えしてもらい、命だけは助かりました。
九州では、黒田如水が西軍の城を沢山落としていました。
加藤清正は、小西行長の居城の宇土城を攻めていましたが、薩摩の島津義久の動向には神経を使いました。結局、美濃での敗戦が伝わると九州での闘いも終わりました。
黒田如水は、せめて一月にらみ合いをしてくれていたら、大軍を率いて大阪城まで侵攻できたのに。
美濃で大手柄を立てた息子を誉めなかった逸話があります。
この闘いがなければ、どうなっていたか?
鎌倉幕府の執権政治に近いやり方をしたかもしれません。
歴史にもしかしたら?
そう思わせる事は沢山あります。
鎖国をしなかったらどうなったでしょうか?
第二次大戦をしなかったら、真珠湾攻撃をしなかったらどうなっているでしょうか?
そう考えると歴史は面白いですよ。
明日の入院で話が纏まりつつありますが、まだ通院の日々が続いています。
今、通院している病院は知り合いが多数いるし、通院してくる患者さんにも顔見知りが多いです。
私が、採血を済ませてからレントゲンを撮影して腎臓内科外来に向かう途中に、知り合いの女性に声をかけられました。
かつてはナースで、雪乃の親友です。
確かドクターと結婚してベンツを乗り回していて、手掛けワックスをコーティングした覚えもあります。
なんだ、利美じゃないか。近くの空いている椅子に座って会話をしていました。しかし、私は白眼視をされていました。
私の前を通る人達が、変な顔をして行きます。
私の診察の番になったから別れました。
あまり検査結果は良くありませんでした。
会計を済ませて、薬を待っていたら、数年ぶりに綾子に会いました。
昌昭さん、昨夜利美が死んだのよ。
癌で、見る影なかったわ。私は、顔面蒼白になり背筋が冷たくなりました。
まさか、ここに浮遊霊が出るとは思わなかったです。たまたま私が居たから利美も来たのでしょうね。
私が帰る時にも霊柩車が病院から出て行きました。
ここはそういう病院だと改めて思いました。
峯岸の件について誰かはコメントするかとブログを見ていたけど、殆ど無いですね。
梅ちゃんが少し触れた程度です。
やはり、一期生は先輩だけにコメントをしにくいのかもしれないけど、板野の卒業が発表されたし、純粋な生え抜きは、たかみなとこじはるだけになってしまったな。
このグループも統制がだんだん効かなくなってきたんだろうね。
最近の脱退者は有望な人間が多すぎる。