徳川御三家と言えば、普通は、尾張、紀州、水戸の三家だと思われていますが、それは正しくもあり、誤りでもあるのです。
二代将軍秀忠の時は、駿河忠長がいました。
水戸は特別な家柄でした。尾張、紀州は共に50万石を越える石高があり、極官は大納言でしたが、水戸はその半分くらいの石高で極官は中納言でしたが、副将軍として、江戸在府で参勤交代を免除されていました。さらに、家康から頼房に特権が与えられました。
将軍の後継ぎが絶えたり、揉めた場合には、人物選定は水戸家が推薦する人物を将軍にする事を武家諸法度に定めました。
実際に、五代将軍を綱吉に押したのは、水戸光圀です。
綱吉の兄、綱重の息子綱豊でも良かったし、大老酒井忠勝は有栖川宮を押そうとしたのを光圀は神君の定めた法度に従い私は綱吉殿を将軍に推挙する。
光圀と紀州光貞、尾張光友の従兄弟三人は仲が良い為に、下馬将軍と言われた酒井忠勝も逆らえませんでした。
こうした背景があるから、後年に綱吉が光圀を疎ましくても水戸家を潰せなかったのです。
もし、潰そうとしたら、将軍乱心として逆に隠居させられ館林に追放されて、甲府綱豊が将軍になったでしょう。
生類哀れみの令に唯一歯向かえた光圀ですが、綱吉を将軍にしないで綱豊をすれば良かったと後悔したでしょうね。
八代将軍吉宗の時は、大奥から水戸綱条に手回しがありましたし、綱条と吉宗は血の繋がりが濃い又従兄弟だし、光貞と光圀が本当に仲が良かったので、水戸と紀州は親密でした。
御三卿が出来ても、水戸家の在府と副将軍の地位は剥奪出来ませんでした。
江戸幕府は、御三家があったから長続きしたのでしょう。