戦争の中で、一番困るのが宗教戦争です。
あの信長ですら、本願寺には手を焼きました。
比叡山を焼いた事は賛否両論ありますが、戦略的には正しいです。
各個撃破は、戦術の基礎ですから。
キリシタンの蜂起は、島原の乱でしたが、それ以前に起こる可能性はありました。
小西行長、高山右近、有馬義貞、大友親家が反乱を起こしたとしても、不思議はなかった。
キリシタン禁止が発令されてから、小西行長は国許を固めていた。
宇土城は大量の食糧と武器弾薬が運ばれた。
有馬義貞も合流して兵力は二万近く居た。
豊前府中の大友親家も、呼応して兵を挙げた。
高山右近も加わった。
こちらは、三万近い大軍になったが、立花宗茂だけは加わらず、妻をつれて飫肥城へ戻った。
こうした情勢で、熊本城には飯田覚兵衛、森本義太夫が残っていたから安心していた。
豊前小倉の細川忠興と黒田如水の豊前勢も領地を固めた。薩摩の島津も出撃準備をしていた。
こんな時に徳川、長曽我部西園寺、堀、中村、などの陸上部隊と三島水軍と宇喜多秀家の兵が府中に進軍して来た。
兵力は五万であった。