きのうの大阪ビル放火事件に思う、心神喪失の定義をもっと厳格化すべき必要性 | KNのブログ

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きのうの大阪ビル放火事件に思う、心神喪失の定義をもっと厳格化すべき必要性


きのう起きたこの悲惨な事件で、27人が心肺停止状態だったという。

そして、院内の入り口付近から油成分が検出されたという。
通報から消火までに30分しか経っていないのに、これほどまで死傷者が拡大した
ことに驚くとともに、再発防止が難しい危険性がどこにでもあるんだナーと思った。


日本の刑法では、39条で
   心神喪失者の行為は、処罰しない
   心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する
と定めているが、心神喪失の定義をしていない!

だが、判例があって、  ・・・1931年12月
   心神喪失(責任無能力)とは、精神の障害により,事物の理非善悪を
   弁識する能力なく、または、この弁識にしたがって行動する能力なき状態
   をいい、心神耗弱(限定責任能力)とは ・・・
としている。   是非弁識能力と行動制御能力に着目している!


私は、事件後の精神鑑定で心神喪失と鑑定されて無罪とされたケースを多々
見てきて、それはおかしい、事件後の状態では「事件を起こす直前の状態を
鑑定出来るはずがない!」と思っている。

その事件を起こすために「包丁を買ってきた」とか、「電車に乗ってやってきた」
などフツーの社会生活を過ごせてきたのであれば、それは
   心神喪失ではないし、心神耗弱でもない!
と考えなければならないと思う。

ましてや、
   「包丁で刺せば人を殺せる」とか「火をつければ火事にして人を殺せる」
と分かっていたのだから、それは善悪を識別する能力を持っていた証拠だろう。
おまけに、特定の人物や人たちを対象にしたり、逆に無差別に(=誰でもいい)
意図的に狙ったのならば、それは行動制御能力を持っていた証拠であろう。

人間は、神様から 「正常であれ!」と命令されて、社会生活を送っているような
もの。 それに反して 「異常であることを実行」した者は、罰を与えられるべきで
もし罰を与えることが適当でないならば『フツーの社会生活をさせてはならない!』
と思う。 つまり、「無罪として社会に野放し」にしてはいけないと思うのだ!


ではどうするか?
   罪は罪として課す、無くしてはいけない!
   罰は、フツーの社会生活ができないと鑑定された内は社会から隔離する;
   社会生活ができると鑑定されたら、フツー状態時に課せられる罰を受ける。
   つまり、罰を実行までの猶予期間は「社会から隔離される!」ようにする。
という形にするのだ。
      ※社会からの隔離は、奉仕活動や何か作業をさせて、運営コストを
        捻出する

こうすると、精神鑑定で無罪に逃げられてしまうということが無くなり、
被害者家族の無念も無くなるだろう。
こんな感じでどうだろうか?