読書日記 151 

脳と心のしくみ 01
池谷裕二 新星出版 \ 1,500

up 2023 10 20 (Mon)
 
脳研究から見た自我や意識の正体。池谷さん(東大薬学部教授)へのインタビュー 
 
ヒトと動物を分ける自我 
 脳の研究は、ある意味では自己矛盾を孕(はら)んでいます。私たちは、脳を解明したいと思い、脳の研究をして います。しかし、脳が簡単に解明できるほど単純なものだったら、私たちはこのような複雑な思考をすることができない はずです。ですから、「解明したい」という思いとは裏腹に、「脳がそんなに単純なもので会ってほしくないという願い も、どこかで持ち続けています。」
 ヒトがほかの動物と大きく違うところは、自我、つまり自分が心を持つと自分で感じていることです。 一方、ほかの動物は、意識を自分の周りの世界に向けています。目の前に現れた動物が自分の敵なのか、それとも エサとなるものかを判断し、自分の行動を決めためです。しかし、ヒトは意識のベクトルの先を、自分の外側だけでなく、 内側にも向けています。そのため、「私とは何か?」と考えるようになりました。
 古代からヒトは自分について深く考えるようにできています。特に現代人にとっては、「自分が何者か」は大きな 問題になっています。でもそんな奇妙なことを考えているのはヒトだけです。どうして奇妙なのかというと、生命に 必須な要素ではないからです。ほかの動物は「自分とは何者かか?」とは考えたりしませんが、生き生きと暮らしています。 自我は、この意味では無駄なものといえます。
 ところが、人間は自我を無駄なものだと思っていません。それどころか、ことあるごとに「自分探し」をやりたく なります。これは自我を大切なものだと考えていることの現われです。では、自我は本当に価値のある「ものなのでしょうか?
 脳をベースに考えてみると、もしかしたら、自我は単なる幻影かもしれないのです
 
生物は「原因を探る」本能を持つ 
 先ほど私は、ヒト以外の動物は意識が自分の外側に向いているといいました。動物は生き残るために、自分の周りの 世界で何が起きているかを知り、それに対処していかなければなりません。これに伴って発達した心理が「原因を解明したい」 という探求心です。
 たとえば、動物がいいにおいを嗅いだ時、「へえ、だから何?」と無視をしをしたら損をするかもしれません。 もしかしたら、そのにおいのする場所に栄養満点のエサがあるかもしれないからです。動物はいいにおいの原因を探ることで 、エサを見つけ、生き延びる確率を高めることができます。
 また、左足に痛みを感じたら、なぜ痛みを感じるのか、その原因を探らなければなりません。原因を探ることで、 けがに対処したり、あるいは、次回はこの道は避けようなどと、学習できるのです。動物が生存の可能性を高めるには、 目の前で何かの現象が起きた時に、その因果関係を知りたいと思う気持ちに備える必要があります。
 こうした進化の名残として、私たちには、どんなことにでも、その理由や原因を知りたいという 本能が備わっています。これは生物としての普遍的な特徴です。自我とはその「知りたい」という探索対象が たまたま自分自身に立ち向かったときに現れます
 私たちの成長過程を振り返ってみるとよくわかります。生まれたばかりの赤ちゃんは、「私って、なんだろう?」 と考える前に、お母さんやお父さんなど、周りの人たちの存在に気づきます。生命にとって他人の存在に気づくほうが、 本質的ですし、なにより現実的です。それにもかかわらず、大人になると、自分の存在が最初にあって、その私が いま世界を眺めていると思ってしまいます。この「自分が先だ」という錯覚、それこそが大きな勘違いだと、 私は思います
 
実体がよくわからない自我 
 それでは、なぜヒトは興味の対象を自分自身に向けるようになったのでしょうか? 正確にはわかっていません。 脳の構造において、ヒトとほかの動物との違いは、ヒトの大脳皮質が大きいことです。おそらく大脳皮質が発達した おかげで、ヒトは自分というものを考えるようになったのは間違いないでしょう。私は、特に空間探索がカギを握っている と感じています。動物たちも、自分を外から眺めている場面が、空間探索なのです。エサを求めて周辺を 歩き回ると、次第にその空間の地図が脳内にできます。専門用語ではこれを「認知地図」と呼びます。地図とはいわば、 俯瞰(ふかん)図です。「世界の中で今自分がどこにいるか」を把握する能力です。いってみれば、自分の体の外側に 「視点」を置いて、自分を眺めています。これが上手にできる生物ほど、エサにありつける確率が高いのです。同時に、 これは自分にベクトルの先に向ける最初の一歩になります。これが進化的に推し進めたものが、「自分への探求心」 なのではないでしょうか。しかし、それはまだ推測の段階で、現在の技術では照明できません
 脳研究が進歩して、脳の機能はある程度分かってきました。しかし、自我の機能を担当する場所がまだよくわかっていません。 たとえば、自分の顔と他人の顔を区別している領域や、記憶に深くかかわっている領域などはわかってきていますが、 だからといって、それらの場所が自我を作っているとはいえません。強いていうなら、自我は脳の様々な部分が連携しているものです。 つまり、自我は脳の広範囲に分散しており、その実態がまだよくつかめていないのです。
 一方、私たちは自我を強固な存在だと思い込んでいますが、実は、とても脆弱なものであるという事実に気づく 必要があります。たとえば、寝ている間は、特に夢を見ていないときは、自我は消えています。 また、麻酔にかかっているときも、私たちから意識が消失しています。そんなちょっとしたことで、 なくなっちゃう危うい存在。それが自我です。それを逆手に取って、麻酔薬の作用する場所を 見つければ、私たちの自我や意識を作り出す場所を発見できるのではないかと、真剣に考えている 研究者もいます。
 
よくわかっていない麻酔薬の作用 
 麻酔薬は脳のどこに作用して意識をなくしてしまうのかが、まだよくわかっていません。 動物実験や臨床実験などを繰り返し、安全性に問題がないから使っているだけで、詳しい仕組みは 不明です。「なぜ効くかわからないけれど、いつもどおりにこれを使っておこうか」という よく考えたらとんでもないことが、病院では日常的に行われているわけです。
 私たちの研究の中で、たくさんの種類の薬剤を使います。薬剤は化学物質なので、化学構造式を みれば、薬剤の機能ごとに特徴的な化学構造を発見することができます。たとえば、花粉症などの アレルギーを緩和する薬剤として抗ヒスタミンがあります。抗ヒスタミン剤にはいくつもの種類がありますが、 化学構造はどれもよく似ています。薬品の名称を見なくても、化学構造式を見れば抗ヒスタミン 剤だとわかるものが少なくありません。
 一方、麻酔薬にはさまざまなものがつかわれていますが、化学構造式に共通の構造が ありません。このことからも麻酔薬の特殊性がわかります。
 
麻酔をかけても活動する神経細胞 
 麻酔薬といえば、数年前に、麻酔薬が作用しているのは神経細胞ではなく、グリア細胞の アストロサイトではないかと主張する研究者が現れました。多くの人が、麻酔薬が作用するのは 神経細胞だと思い込んでいるかもしれませんが、実は麻酔薬を注入しても神経細胞は活動して います。麻酔薬で神経活動は止まらないのです。
 有名な話では、1981年にノーベル医学・生理学賞を受賞したディヴィド・ヒューベルと トルステン・ウィーゼルの実験があります。二人がネコの脳の中で、神経情報がどのように処理されたかを解明したのですが、 実は当時の実験では、ネコは麻酔がかけられていました。麻酔で意識がない状態にもかかわらず、 実験では脳の中で視覚情報がどのようにしょりされているか、その仕組みを解き明かすことが できるのです。
 では、その麻酔科のネコは「見えている」のでしょうか。少なくとも視覚野の神経細胞は、 麻酔がかかっていても反応は停止しません。ところが驚くことに、グリア細胞の反応は麻酔を かけると止まってしまいます。麻酔薬に敏感なのは、神経細胞ではなく、グリア細胞なのです。 こうしたを根拠に、グリア細胞に意識があると考えると考えている研究者もいるのです。
 
語りえない自我と意識 
 自我や意識は、物質ではなく、精神的活動であることが問題を難しくしています。つまり、 物理的実体ではないわけです。たとえば、スピードとは何かを調べるために、車を分解するひとは いるでしょうか? どんなに車を分解してもスピードについてはまったくわかりません。なぜなら、 スピードとは車が走っている「状態」だからです。ですから、物質である車を分解しても スピードという概念はでてきません。自我や意識もこれと同じようなもので、物質である脳を どんなに細かく切り刻んで観察しても、一向にわかるものではないのです。
 自我や意識は、哲学的に厳密な立場でいえば、語りえない対象です。そのような 問題を研究しようとする人は少なくないですし、一般の方も「自分に興味がある」という人は多い と思います。しかし、見方をかえれば、その姿勢自体が、おこがましいことなのかもしれません。 ましてや科学によって自我や意識を解き明かすことは、お門違いな探求をしている可能性が高い わけです。ただ、そのような勘違いを、ついつい大真面目にしてしまう人間のクセを、私は 面白いと感じています。なぜか脳は、実体のない自我について知りたくなるようにプログラムされて いるわけですから。むしろ私の興味は、この願望を生む神経メカニズムにあります。その 願望があるからこそ、「不思議な自分」が浮かびわけですから。
 
研究が進む記憶の仕組み 
 さて、自我や意識と大きなかかわりのあるものの一つに記憶があります。ヒトは記憶を通じて、 自分という存在を知ることができます。もし、脳に記憶の機能がなかったら、自我は生まれないでしょう。 MRIなどの計測器が発達し、記憶をするときや思い出すときに、脳がどの領域が活動しているかが わかってきました。ネズミやサルを使った実験では、さらに神経細胞の単位で分かるようになってきて います。
 だからといって、記憶の仕組みがわかったわけではありません。記憶は神経細胞の単位 ではなく、複数の神経細胞をつなぐシナプシスの単位で行われるからです。ひとつの神経細胞には、 約1万個のシナプシスがあるので、新駅細胞単位で解明できたとしても、まだまだ解像度が粗すぎる のです。
 
脳はシナプシスの関係性で覚える 
 多くの人は、脳もコンピュータと同じようにひとまとまりの情報として、ある場所に様々なものを記憶しているという イメージを持っているでしょう。しかし、脳の記憶の仕方は、コンピュータとはまったく違います。脳では、たくさんの シナプシスに分散されて記憶する「分散記憶」という方式が使われています。
 コンピュータは、一つ一つの電子回路の入れ物に意味があり、一つ一つの情報の読み上げ、まとめることで、 どのような情報かを読み取ります。これに対して脳は、一つ一つのシナプシスを見ても読み取れません。いくつかの シナプシスが同時に活動して、全体的な活動の関連性を読み解くことで意味が出てくるのです
 
脳は時間を重視する 
 記憶は、自我や意識だけでなく、時間とも深く関係しています。私は現在、文部科学省が進めている「心の時間学」 のメンバーです。ヒトは自分たちの周りにある世界を、空間的な広がりの中だけでなく、現在・過去・未来といった時間的広がりの 中でとらえています。「心の時間学」は、こうした時間認識がどのようにして生まれてくるのかを神経科学・言語学・哲学・ 比較認知学などのアプローチによって明らかにしていく試みです。
 時間は、物理時間と心理時間に大別されています。物理時間とは、この宇宙に流れているとされる時間のこと。 心理時間とは、生物が一つ一つの個体の中で感じる時間の流れです。心の時間はあっという間に過ぎたり、ゆっくり過ぎたりと、物理時間と 必ずしも一致しません。現在確認されている限りでは、おそらくヒトは生物の中でも、特に心理時間に敏感 な生物でしょう。たとえば言語には、過去・現在・未来を厳密に区別する時間を持っています。これは、ヒトの 意識が、特に過去・現在・未来の区別を重要なものと考えてきた証拠です。
 
時間はヒトが作り出した? 
 ヒトの時間の認識には、記憶によって発展して自他と考えられています。私たちは時間の経過を、 さまざまなものの変化によって見出しています。もし世界が全く変化しなかったら時間を感じることはないでしょう。 変化に気づくとは、違いを見つけ出す作業です。前の状態を記憶していないと、ものが変化したかどうかを判断 できません。つまり、記憶がないと、股間の経過を感じることができないのです。そして、ヒトは記憶を通じて 時間の概念を作り出し、心理時間を感じるようになりました。
 心理時間は個体によって感じ方がまちまちです。それに 対処するために、社会的に共通な基準となる物理時間を定めたのです。つまり、心理時間は物理時間に先行する といえます。その後、物理学の発展によって、人間が誕生する前の世界が変化する様子もわかってきました。 たとえば、宇宙は約138億年前に誕生し、初期のころにビッグバンが起きたと考えられます。ただし、これらの 事柄は、ヒトの脳によって明らかにされ、人の脳にのみ意味をなすものなのです。
 哲学者のバートランド・ラッセルは、「世界五分前仮説」を提唱しました。彼が主張したのは、 「この世界は五分前に始まったかもしれないという仮説です。この仮説を覆すことができますか? これは 奇妙な仮説のように聞こえますが、私たちはこの仮説を確実に覆す手段を持っていません。なぜなら、自我も この世界の有りようも、すべて、個人の「記憶」に全面的に依存しているからです。
 
答えようのない問題に引かれる脳 
 この本を読んでいる皆さんは、世界五分前仮説を聞いて、「私は五分以前の過去の記憶を持っている」 と思うかもしれません。しかし、その記憶は五分前に移植されたものかもしれません。その記憶が、どれほど鮮明な厳密性 を伴っていたとしても、「そう実感されるように植え付けた」と説明されれば反論のしようもありません。
 私たちの記憶は脳に刻み込まれています。しかし、この世界を認識するのもまた脳です。記憶を操作 されれば、五分前にに作られた世界に何十年も住み込んでいると思い込んでしまうことが思考実験として 矛盾はありません。こうした単純な思考実験で、私たちが確固たるものと信じている世界は、いともたやすく 揺らいでしまうぐらい「私」は不確実なものだし、逆に、時間や自我がいかに記憶に依存していることを 象徴しているともいえます。
 ともあれ物理時間は人間が作り出した道具で、社会的な合意によって成立しています。では、その 合意はどこからくるのでしょうか?
 突きつめていけば、その合意を生み出しているのは脳になるわけです。
 時間を定義しあっているからこそ、ヒトは「宇宙はどうしてはじまったのか?」「自分が死んだらどうなるのか」 といった答えがない問題にさえ心が引かれるようになります。こうした疑問には、「時系列を処理できる」 「原因を追究する」という脳の特徴が根底にあります。
 
自我や意識は飾りなのか 
 自我や意識は、脳の活動の一部です。私たちは、自分の意識が体を動かしていると思いがちですが、 そんなことはありません。無意識のうちにたくさんの活動をしています。たとえば、喫茶店で友達と話を しているときでも、しべりながらお茶を飲んでいますし、次に何を話そうかと考えています。さらにいえば、 私たちの生命を維持している呼吸、心拍、体温の維持などもすべて無意識のうちにコントロールされています。
 意識によって、自分のすべてを制御しているという考えは、完全に勘違いです。人間にはたくさんの自己が 同居し、常に複数の事柄を並行して処理しています。しかも、ほとんどは意識にのぼらずに、無意識に処理 されています。さまざまなことを同時ににやっている「多重人格的な私」が自我を持つためには、「自分は一人しか いない」と意識上で勘違いすることが重要なのかもしれません
 
◇◇◇ 
 この本は、2023 3 25 発行の初版であり、ほぼ最先端の脳科学の本であろう。
 上記の引用は、「脳と心の仕組み」のエピローグに書かれた著者へのインタビューの全文である。
 主要テーマは、「自我や意識の正体」であり、「科学で自我や意識を解き明かそうとすることは大きな 勘違いかもしれません」といい切っている。
 そうはいっても、後半では、「自我や意識は、脳の活動の一部です」といっている。
 つまり、まだ、自我や意識、あるいは心は、現代の脳科学では未解明の領域である、のだろう。
このあと、本文が始まる。章のタイトルだけをリストする。 
第一章 脳の機能
第二章 心の一生
第三章 脳と心の不思議
第四章 脳と心の病気
第五章 未来の脳と心
エピローグ、他 
 本文はさっと眺めただけだが、第二章の「老化のメカニズム」、第三章の「夢をみるのはなぜ?」、 第四章の全体、は改めて精読したい。
 
 つづく