読書日記 149 up 2023 10 09 (Mon)

記憶力を強くする 
池谷裕二 講談社 \980

 
 第六章 科学的に記憶力を鍛えよう
 
 著者の池谷裕二さんは東大薬学部教授。
 第一章から第五章は、脳が記憶する仕組み、記憶の性質、神経細胞(ニューロン)、シナプスの性質、海馬の役割など、脳の内部の 記憶のミクロ的な解説。
 第六章は、それらの知見を活かした効率的な学習の方法を考える。
 
 覚えられないのか、それとも覚えていないのか
186 まずは年齢と記憶の関係。
 年齢とともに神経細胞の数は減っていくが、シナプス(ニューロンの接合部)の数はむしろ増えていく。 このことは、若い頃より歳をとった法が記憶の容量が大きくなることを意味する。
 
187 それなのに人は「歳のせいで覚えが悪い」と嘆くひとがいます。これは大変な間違い。そういう人は単なる 努力不足なのです。また、昔自分がものを覚えるために、どれほどの努力をしているのかを忘れているのです。 勉強がその生活の大部分を占めていた学生時代でも、ひとつのものごとを習得するのに、かなりの時間と 労力を必要としたはずです。そうした苦労した経験を忘れ、ただ嘆くのはとても愚かな行為です。

 余談:わたしは82歳、池谷さん、厳しいことを言いはるなあ。 努力せずに、「覚えが悪くなった」と嘆くのは「愚行」だとおっしゃる。 
 
 一方、「物忘れがひどい」とグチをこぼすのは、それもまた、忘れてしまっておもいだせないのではなく、 単に初めから覚えていないのです。覚えたつもりになっている。その勘違いは記憶力の停滞を引き起こします。
 もち、皆さんが、いままでこうして愚痴をこぼしていたとしたら、それは誤解ですから、ここで改めてください。
 このようにマイナス方向に自己暗示をかけてしまう行為は、正常な記憶力を妨げてしまいます。
 
 余談:「もの忘れがひどい」とこぼすのも「誤解」だとおっしゃる。自分に マイナスの自己暗示をかけたら「アカン」とおっしゃる。
 わたしはいま「緑の灯火」に「原書で読む世界の名作」シリーズとして「その時をつかめ」を連載 している。再読途中に忘れてしまった単語や成句の出くわすと、必ず辞書をひいてその言葉も書きそれている。
 池谷流の表現すると、辞書を引くことが多くなったと嘆いてはいけないのだ。物忘れがひどくなったのではなく、最初から あいまいに思えていると、いうことになる。まあ、昔ほど、原書の多読ではなくなったが。
 
 
 無駄な勉強法
188 しかし、歳をとって記憶力がまったくかわらないのかというと、もちろんそうではありません。
 記憶には様々な種類があり、しかも、そのおのおのが人の成長に密接に関係しています。第二章でのべた ように、記憶は階層構造をしています。「エピソード記憶(顕在記憶)」「知識記憶(顕在記憶)」 「意味記憶(潜在記憶)」「プライミング記憶(潜在記憶)」「手続き記憶(潜在記憶)」。
 
188 一般に人がものを覚えるときには、覚える対象によって「適齢期」があります。脳科学者は 「臨界期」と呼ぶ。絶対音感は3-4歳。言語は6歳。スポーツ(運動能力)にもあります。
190 歳をとって、エピソード記憶が発達してくると、丸暗記よりも。論理だった記憶能力が発達 してきます。この6章では論理的な記憶能力を鍛える方法について考えます。
 
 記憶のビタミン
191 記憶には、長期記憶(LTP:Long Term Potentiation)と短期記憶(Short Term Memory)がある。
 短期記憶は、30秒から数分以内に消える記憶で、覚えられるものの数は、7個前後の小容量。
 長期記憶には、「エピソード記憶」「知識記憶」「意味記憶」「プライミング記憶」がある。
 初体験、興味のある対象、熱中、感動を伴う記憶は覚えやすく、使えば使うほど覚えやすくなる。
 
197  シナプス可塑性
 「可塑性」とは、あるきっかけににしたがって変化をおこし、この変化を保ち続ける性質である。
 辞書には「個体に外力を加え弾性限界と超えた変形を与えたとき、外力を取り去ってもその歪みが そのまま残る現象」とある。
 脳の可塑性とは、脳にあるきっかけによって何らかの変化を起こし、そのきっかけがなくなっても 変化したままの状態でいることである。
 
  脳の可塑性
 記憶するということは、神経細胞のつながりが変化することなのです。「脳の可塑性」は新しい神経回路 の形成によって起こるわけです。この意味で「何か」とは「神経回路」であるといえます。神経回路の変化こそが 記憶の正体なのです。
 
 意図的にはできない忘却
202 「覚えること」は意図的に操作できますが、「忘れることは」意図的にはできません。
 ドイツの心理学者エビングハウスは、意味のない三文字の単語を被験者にたくさん覚えさせ、それがどの ようなスピードで忘れていくかの実験をしました。初めの4時間の間に半分近くを忘れ、残りは時間とともに 幾何級数的に忘れていくことを発見しました。「エビングハウスの忘却曲線」。さらに、別の文字を覚えさすと、 前の文字は急速に忘れていきます。「記憶の干渉」。失恋で恋人が忘れなくて悩む。新しい恋人ができると、 前の恋人のことは急速に忘れる、というのも「記憶の干渉」です。」
 
 
 復習効果
 新しく覚えたことは、大部分が一か月内の思い出せなくなります。これは忘れたのではなく、 思い出せなくなっただけ。いったん覚えた記憶は消えない。ただし、復習は一か月以内に行うこと。
208 忘却曲線を考慮に入れると、最も効率的な復習スケジュールは、ます、一週間後に一回目、 それから二週間後に二回目、そして、二回目から4週間後に三回目の復習をする。それから8週間後に4回目の 復習をする。
 歳をとると、「物覚えが悪くなる」という「気がするのは、若いころのように何回も繰り返す根気が かけているのも要因の一つです。何かを習得するには、繰り返し学習しましょう。
 
 太極拳24,太極拳48
 わたしは、定年退職後に、近くのジムで、太極拳コースをとった。太極拳入門コース、太極拳初級コース、 太極拳24式、太極拳48式コースのレッスンを受けてきた。毎週、火曜日の90分コースである。
 始めてから、20余年になるが、いまだに講師から、眼法、手法、腿法などの指導を受ける。
 その間、講師が5ー6人変わる。講師のよって教え方も変わる。 もう、上達はとっくにあきらめて、体幹維持と呼吸法にだけに注意を集中する。
 
 つづく
 
 
読書日記 148 up 2023 10 03 (Tue)

嘆異抄 (01) 
五木寛之 PHP文庫 \620

 
 嘆異抄(たんにしょう)にこんな言葉がある。

 善人なほもて往生(おうじょう)をとぐ。いはんや悪人をや。しかるを 世のひとつねにいはく、この 条(じょう)、一旦(いったん)そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣 にそむけり。そのゆゑは、自力作善(さぜん)のひとは、ひとへに他力をたのむ こころかけたるあひだ、弥陀(みだ)本願にあらず。しかれども、自力のこころ をひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土(ほうど)の往生をとぐる なり。煩悩具足(ぐそく)のわれらは、いづれの行(ぎょう)にても生死(しょうじ) をはなるることあるべからざるを、あわれみたまひて願(がん)をおこしたまふ 本意、悪人成仏(じょうぶつ)のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、 もっとも往生の正因(しょういん)なり。よって善人だにこそ往生すれ、ましてや 悪人とは、仰せ候(そうらい)ひき。

 嘆異抄(たんにしょう)は、親鸞の没後25年ごろ(13世紀末)、 親鸞の弟子・唯円によって著作されたと推定されている。
 親鸞の滅後、親鸞の思想が誤って理解され、広まっていることを嘆いた著者 が、自分が直接聞いた親鸞の言説をまとめたものである。

 上に引用した文章に「悪人なほ往生す。いかにいはんや善人をや」が ある。世間では、悪人さえ往生するのだから、まして善人は当然往生する、と 理解されているか、著者・唯円は、これは間違いである、といっている(らしい)。
 (らしい)というのは、私にはこの中世の文章を理解する能力がない。

 五木寛之の「私訳 嘆異抄」を引用する。

 あるとき、親鸞さまは、こう言われた。

 善人ですらすくわれるのだ。まして悪人が救われぬわけはない。
 しかし、世間での人々は、そんなことは夢にも考えないし、言わないはずだ。
 「あのような悪人でさえ救われて浄土に往生できるというのなら、善人が極楽往生するののは 決まり切っていることではないか」」
 こういうところが、普通一般の考えかただろう。
 そのことばは、なにげなく聞いていると、理屈に合っているように思われないでもない。だが、 あらためて阿弥陀仏の深い約束の意味を考えてみると、仏の願いにまったく反していることが分かってくる。
 というのは、いわゆる善人、すなわち自分の力を信じ、自分の善い行いの見返りを疑わないような 傲慢な人々は、阿弥陀仏の救済の主な対象ではないからだ。ほかにたよるものはなく、ただひとすじに 仏の約束のちから、すなわち他力に身を任せようという、絶望のどん底から湧き出る必死の信心に 欠けるからである。
 だが、そのようないわゆる善人であっても、自力の溺れる心を改めて、他力の本願に立ち返る ならば、必ず真の救いをうることがができるにちがいない。
 あらゆる煩悩に取り囲まれているこの身は、どんな修業によっても生死(しょうじ)のまよいから 離れることはできない。そのことをあわれに思ってたてられた誓こそ、すべての悩める衆生(しゅうじょう) を救うという阿弥陀仏の約束なのである。
 わたしたち人間は、ただ生きるというそのことだけのためにも、他のいのちあるものたちの いのちをうばい、それを食することなしには生きえないという、根源的な悪を抱えた存在である。
 山に獣(けもの)を追い、海河に魚をとることを業(ごう)が深いというものがいるが、草木(そうもく) 国土のいのちを奪う農も業であり、商いもまた業である。敵を倒すことを職とする者はいうまでもない。 すなわちこの世の生きる者はことごとく深い業を背負っている。
 わたしたたちは、すべて悪人なのだ。そう思えば、わが身の悪を自覚し嘆き、他力の光に 心から帰依(きえ)する人々こそ、仏に真っ先にすくわれなければならない対象であることが分かって くるだろう。
 おのれの悪に気づかぬ傲慢な善人でさえも往生できるのだから、まして悪人は、とあえていうのは、 そのような意味である。
 
 そうか、親鸞(しんらん、承安3年4月1日 - 弘長2年11月28日 )は、鎌倉時代前半から 中期にかけての日本の仏教家。親鸞聖人と称され、浄土真宗の宗祖とされる 。 法然を師と仰いで からの生涯に亘り、「法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教え 」を継承し、 さらに高めて行く事に力を注いだ。
 
・ 人間はみんな、日々、煩悩に悩まされ、煩悩から逃れることはできない。
 さらに、生き物(動物・植物)のいのちをいただいで、生けて行かなければならない 悪人である。 
・ そういう宿命をおった悪人でも、ナムアミダブツという阿弥陀様から頂いた念仏を唱える ことで、極楽浄土で往生できる。
 ここでのポイントは、阿弥陀様におすがりする「他力本願」である。
・ 自分の力で悟りを開こうとする善人は、「自力本願」であり、お釈迦様のように超能力を 持っているか、自分の煩悩に打ち勝つために、厳しい修業に絶えられるごくわずかな人たちである。 
 真言密教などで修業をする人たちは、「現世」で悟りを開こうとしている。
 浄土真宗の人たちは、現世では念仏を唱えて、阿弥陀様の導きで、西方浄土に行き、 そこで修業をして、悟りを開く。「現世」はなく「来世」での悟りを求める。西方浄土に行くことが すなわち悟ることではなく、そこでさらに修業をする(らしい)。
・ 善人は、おのれの悪にきづいていない傲慢なひとである。 
 
 人間をふくめすべての生物は、他の生物(動物・植物)のいのちを貰って生活している。
 そういう意味で、ここでは、人間はすべて悪人と言っている。
 道徳的、倫理的(法律的)な善悪ではない。生物の進化上でそういうふうにできている。
 まあ、煩悩も、生物が進化の過程で学習した智慧である。だが、中には現代生活上、過度な 煩悩への執着は避けたほうが心が落ち着くものが多い。
 
 ここでは、阿弥陀様から頂いた念仏(他力)でいきなさい、と言っている。
 この世はすべてがすべてが自分の思うようにはならない。任せられる方がいる方がいい。
 そえとは別に、悟るとはとういうことか、とか、悟るのが現世か来世なのかは、いまの私にはわからない、
 
 
読書日記 147 up 2023 08 30 (Thu)

吾輩は猫である 
夏目漱石 新潮文庫 \630

 
 地球沸騰、外出する気力がなくなり、本箱の隅に埃をかぶっていた本やネットで 取り寄せた本を読む。
 
 私を変えたこの一冊作家24名の名作鑑賞
 集英社文庫 初版 2007 6 30 \457

 
 作家24名が一冊の本を推薦している。
 その中で、久世光彦が伊藤幸男の「野菊の墓」を取り上げている。
 推奨文のスタイルおもしろい。その面白さにひかれて久世の本を読んでみたくなる。
 
 
 蕭々館日録
 久世光彦 中央公論 \1,200

 
 これは久世版「吾輩は猫」である。
 小島蕭々という作家の家に、高等遊民たちが、集まる。
 登場人物は、蕭々館の館主、小島蕭々は小島政二郎、
 語り手は、わたし:麗子五歳の少女。小島蕭々の一人娘。
 九鬼は、芥川龍之介、比呂志くんは、龍之介の子供。
 蒲池さんは、菊池寛、
 
 
 蕭々館日録
 久世光彦 創元社推理文庫 \800

 
 江戸川乱歩が執筆に行き詰まる。麻布のホテルに長期滞在する。
 中国から誘拐され娼婦になった「梔子(くちなし)姫」を救済する物語。
 耽美的な作風で読書人を虜にした明文家・久世による虚実入り乱れる妖(あやかし) の迷宮的探偵小説。山本周五郎賞受賞作。