シェークスピアへの参照 06

前沢浩子と「お気に召すまま」 その2  2018 04 06 (Fri)

 「あらし」でミランダが、プロスペロに薪を運ばされるファーディナンドとの会話がある。チェスでファーディナンドが ずるをしたとミランダが抗議をする。これらはすべてプロスペロの筋書きである。これは理解できる。
 
 ところが「お気に召すまま」では、男装のロザリンドとオーランドーや、羊飼いのフィービーとの長い会話がある。 必要以上に長々とした会話である。観客に何を訴えたいのだろうか、劇全体のストーリーでどういう意味があるのだろうか。
 
 こういうときは、先駆者に教えを乞うにしかず。前沢浩子(獨協大 英文学教授)さんの解説を引用する。
 「シェークスピアはこの牧歌の世界に、劇場の大衆をも楽しませるの伸び伸びとした活力を吹き込んだ。宮廷を追放された 者が、羊飼いに扮して自然の中で暮らすという牧歌のパターンを通して、『お気に召すまま』で大胆に問い直されているのは、 恋愛とジェンダーの関係だ。ロザリンドは羊飼いの若者の衣装をまとい、オーランドーに対して圧倒的に有利な立場に立って いる。自分に恋している男の気持ちを知りながら、自らは正体を隠して、「専門にしている治療法はカウンセリングです」と うそぶき、恋煩いを治すという口実で、ロザリンドにみたてて自分を口説けと命じる。女の気まぐれを分かっていないとからかい。 結婚すれば理想の女性も嫉妬深く、一方で悪賢く浮気をする厄介な妻になると警告を発する。この本音と冗談の入り混じった女の 正直な思いを、好きな男に言いたい放題に伝えるのだから、これほど好都合な設定もない」。
 
 「女の実体と男の見た目の両方を併せ持つことによって、ロザリンドは理念化された女性像をいとも簡単にこわして見せる。 田舎娘フィービーが気取る宮廷恋愛風のつれない貴婦人ぶりも、ロザリンドには見当はずれな文学趣味でしかない」。
 
 と、前沢さんは解説する。
 
 だとしても、それがこの劇「お気に召すまま」のテーマなのだろうとも思えない。侯爵の弟が、侯爵の兄を追放する。追放 されたり、宮廷でいられなくなった人たちが続々とアーデンの森に集結する。
 そういうおおきな文脈の中で、ロザリンドの戯れはどういう意味を持っているのだろう。
 
 いま、第三幕第五場を読んでいる。物語は第五幕第四場までつづく。まあ、あわてて結論を出すこともないか。
 わからないところは、わからないままにしておこう。20世紀や21世紀の女の気まぐれっだって、わたしはわかってはいないのだ。
 
 
 つづく