月収は3600円でした。
50年以上前の出来事なので、正確ではないかもしれませんが、家賃代として母に100円玉で3000円を渡して、涙された記憶が今でも印象深く残っています。
譲二は何かを買ってもらうことよりも、何故か嬉しかった。
極貧で価値感が少し変わっていたのかもしれませんね (^^;;
当時、ラーメン1杯50円。
銭湯代20円。
2DKの家賃3000円。
今はその20倍以上くらいになっている値段を考えると、自分自身よく頑張ったなぁと思います。
当時の譲二は、少しでも多く稼ぎたいとしか考えていなかった。
そこから、順調にビンビジネスは進み、売り上げは右肩上がりに上昇していった。
しかし、1か月くらい経ってからまたちょっとした問題が起きた。
それは、相棒の太郎が
「もう辞める」
と、言ってきたのでした。
理由を聞いたら、家でそんな事をして恥ずかしいと怒られたそうです。
それは、譲二もよく理解出来た。
貧乏な家の譲二でさえ、姉兄にそう言われていたぐらいだから。
小学生がこんな事をしてたら、家族はよくは思いません。
譲二はふたつ返事で了解した。
しかし、譲二は
『相棒をすぐ探すから、ちょっと待ってもらいたい』
と、頼んだ。
次の日友達数人に声を掛けたところ、前から譲二を見ていて、お金欲しいし面白そうだから是非やりたいと言ってくれた。
そして、友達の賢治と保を迎え入れることを即決しました。
更にラッキーな事に、当たり前かもしれませんが給与も少し下げることが出来た。
前の相棒とは折半だったので、会社として諸経費が掛かっていたので助かりました。
正直、前の相棒は少しがめついところがあって、現在思い返してみても違和感を感じるほどでした。
いつか、話さなきゃと思っていたので結果的に良かった。
新しい社員とは、ローテーションや回収の仕方などを再考して、楽しくビジネスが出来た。
そしてたまに、ラーメンを食べる親睦会もやりました。
手袋や強い袋を買う諸経費も、人件費も下げられたので安定した経営が進んだ。
譲二は家が貧乏だったことで、ビンビジネスを始めたことは、その後の人生に大きな影響と勉強になったのだ。
後々の会社経営の原点にもなった。
苦難に負けない強い自分になれたと思います。
その後、この仕事を継続するために、困難も数多くありましたが、無事にその年の年末までビンビジネスは続いたのでした。
年末年始を休んでも大丈夫なくらいの貯金も少しできました。
休まず働いていて、疲れも溜まっていたので少しの間休業することに。
そんな時、突然考えてもいないところから、今で言うヘッドハンティングの話しが譲二に来た。
さて、それは?・・・
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