3月初旬には、引っ越しの片付けも終わり落ち着いた生活がスタートしました。
新しいアパート生活は、物置の家と違い快適で新鮮そのものでした。
部屋が2つになった為、一家6人寝る時も少し広く使え、かなり楽になりました。
また、トイレが家の中にある事が、こんなにも便利だとはと思ったほどです。
譲二も姉兄達も遊びに出ていても、早く家に帰りくつろぐ事が楽しみでした。
1ヶ月が経ち幸せっぽい?ムードは去ってしまい、また現実の極貧生活の状況に。。
4月から小学校入学。
姉兄達は前の地域の小学校から転校です。
小学校は、家から歩いて30分ぐらいかかります。
よく歩いた記憶だけは、はっきり頭に残っています。
そして、入学する時に困った問題にぶつかりました。
それは、みんなの教科書代などの購入代金がなにも無いんです。
譲二の時代は義務教育でも、教科書は無償ではありませんでした。
その為、各家庭で指定の本屋さんで教科書を買わなければならなかったのです。
さぁ、大変!
月々の生活費の予算はきっちり決まっていましたが、引っ越しで経費等をやり繰りをしていてこの時にはもう余分なお金がなかったのです。
それは母のパートでの収入しかなかったので、やり繰りが出来なかったからです。
入学準備費用や教科書代などについて、母は真剣に工面する事は考えていたのですが、既に毎月の生活費は足りなくて大変だったので、もうどうしようもないくらいのマイナス状態でした。
物置の家と違い、家賃以外に公共料金の支払いも必要になります。
(後から、母から聞いたのですが)
当時、マイナス分を補うのによく質屋に行っていたそうです。
それでも、やり繰りができずに新しいノートと鉛筆しか買えません。
特に譲二は新しい洋服や靴、そして教科書も買ってもらえませんでした。
それは姉兄たちが使ってた、お古の教科書をみんなで使い回し状態。
新しい教科書を買ってもらえたのは、一番上の姉だけでした。
それでも、ぜんぜん平気だったそうです。
今、考えると母の方が本当に辛かったと思います。
僕、神童ですから大丈夫でした ^_^
平気で楽しく通学をしていたそうです。
人生のキャッチフレーズは、
〝どんなに苦しい事も落ち込みは3分で終わる〟です。
幼少時代に体験した数々の苦難の時も平然としていた事がキッカケですかね ^_^
藤川家の収入は、母の月末に入るパート代だけだったので支払いをした後は、もうお金はいくらも残りません。
物置小屋の時でさえ、支払い分が足りない状態だったところへ、新しい生活で更に生活費がかさんでしまいました。
その時の極貧生活では電気が止まるのは毎月のこと。
そして給食費、PTA費なども期日通り払えた事は一度もない状況でした。
もちろん、お小遣いを貰った記憶もありません。
特に一番悲惨だったのは、小学校で給食のない期間の時です。
その時は、家から昼食を持参しなければならいのです。
譲二も姉兄も金がない事はよく分かっていたので、学校給食がない期間の事は、母には一切言いませんでした。
これは本当の話しですが、一週間ぐらい昼食を
『身体の具合が悪いので食べないんだ』
と、言ってた事をホームルームでその真偽をテーマにされた事がありました。
(それを言い出したクラスの男子の名前は、今でもしっかり覚えています。)
しかし、なんだかんだ苦しいことだらけでしたが、一家は生き延びました。
そして、譲二は小学4年になり、いよいよお金を稼ぐことを始めるのです。
それは・・・
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