アルコールとエアコンの力添えにより爆睡から目覚めました。
本日は午後に勉強を集中させることにして、午前中は憲法の勉強をしているときに、しばしば感じることについて散文を書いてみます。
受験生の方々には、釈迦に説法的な、非常に基本的な事を書いていきますので、適当に読み飛ばして下さい。
憲法の目指すもの、それを一言でいうなら人権保障です。そして、「第三章 国民の権利及び義務」として具体的に規定が置かれています。
これらの人権を保障するための手段として、考えられたのが国民主権(前文1段、1条)であり、主権者として自ら権力を行使すれば、自らの人権をないがしろにはしないでしょうから、という考えが基本となっているわけです。
国民主権を、実際の政治の運営の仕方としてとらえると、民主主義ということになり、両者はほぼ同義の言葉として理解されています。
民主主義というと、それに沿っている事が無条件に良いことであるように感じがちですが、それ自体は「多数者の意思」の名の下に、いかようにも事を進められる危険性を同時に備えており、プレビシットの危険を含むことも事実です。
具体例が、ナチス支配下のドイツということになります。
そういった、民主主義(特に間接民主政において)の持つ危ない面を抑えるためには、純粋な多数者支配を抑制する必要性が出てきます。
それが、立憲主義(自由主義)です。憲法により国家機関の権力を拘束していく、というのが元の考え方ですが、民主主義の下では結局のところ「多数者の意思」を拘束していくことになります。
そして、一部相反する性質を持つ両者が不可分一体となった、立憲民主主義を我が国はとっていることになっています。
その意味は、価値観の相対性を「完全には」認めません、ということを含みます。
具体的には、理論上1億2千万人の意思と擬制される「法律」を、最少で3人という少数にて無効としてひっくり返すことが出来る、違憲審査権(81条)が「多数者の意思」でなんでも好き勝手にはさせないよ、という顕著な例として挙げられます。
ただ、それが制度として良いだろうなということを、直感的に理解する事は、そう難しくはないけれど、どちらも憲法上の要請である以上、憲法の解釈をしてみても、多数者支配を一歩後退させるべき、すっきりとした理由付けは出てこないのです。
そこで、良く頭をよぎるのが芦部先生流の「根本規範」という憲法を超えた価値観の存在です。
それは、スピリチュアリティの分野で表現すれば、「大いなる意思」「宇宙の意思」ということになり、宗教上の表現では「神の意思」なのだろうと思います。
また、人権保障の場面でも、憲法上絶対保障とされる思想・良心の自由(19条)でさえ、内心に留まらず外部的行為を伴えば、それは表現の自由(21条1項)でしかありえず、絶対無制約ではなくなります。
その制約の根拠は、「公共の福祉」(12条、13条)にあるとするのが判例・通説です。
しかし、これも対立する利益のどちらを後退させるのが正しいかを実質的に判断する上で、憲法内部で決着の付きようがありません。
裁判官は「その良心」(76条3項)にのみ従って、憲法に拘束されながら職権を行使するわけですから、憲法上の価値が等価である対立利益につき考量する際、もはや頼りにできるのは「その良心」のみです。
その場合、「その良心」は公共の福祉により資する方向はどちらか、と考えることになるわけですから、憲法を超えた価値基準が頭に存在しなければ出来ない相談となります。
それは結局、根本規範であり、大いなる意思、宇宙の意思、神の意思etc...といった、科学的証明が極めて困難だけれども、確かにあるであろう、より優れた判断、目に見えない価値基準。そして、それこそが公共の福祉の内実ではないでしょうか。
価値観の相対性は、もちろん認めるけれど、その価値観の持つ、根本規範・大いなる意思・宇宙の意思・神の意思からの乖離の大小という形での、優劣というものも確かに存在すると思うのです。
その意味で、純粋多数者支配的民主主義へのシフトを強めること、すなわち価値観の相対性を徹底することに、私は危惧感を禁じえません。
少々私は悩んでいるようです。
ここまでお付き合いくださった方々に、深く感謝を致します。
それでは、また!