今日は予定通り、勉強・アファーメーション・身体トレーニングの三本柱をこなしました。
予定が狂ったのは、札幌第一の敗退くらいでしょうか、ま、相手が智辯和歌山であれば、不足はないでしょう。
そんな風に、ほぼ順調に一日を終えつつある状況で、ふと思ったことを書いてみます。
成長欲求と利他愛は、一体どのように調和させれば良いのだろうか。
そんな事が浮かんできました。
若干のおこがましさを、こらえて書きます。
私は、成長欲求が強い方だと思っています。そして、努力をすることが好きなんだと思います。
しかし、人を押しのける事、俺が、俺がと前へ出る事は大嫌いです。
自己の能力をアピールする事すら、例え仕事上必要だと言われている範囲の行為であっても、罪悪感を感じます。
黙って、持てる能力を、それを必要としている人のために発揮しさえすれば良いのだと、そう思っています。
極端に言えば、人を元気づけたり、癒したり、そういった方向性の発言以外は、口なんて閉ざしているべきなのではないかとすら感じます。
自己の能力を高めることは大好きですが、勝負事は大嫌いです。勝負の結果、勝利を収めることに対して、ある種の嫌悪感を感じているとも思います。
繁栄は欠乏なくしては、決して成り立ちません。勝利も敗北なくしては。
それを思うとき、なぜそんなに勝利や繁栄を手放しに喜べるのでしょうか。
自らの手で、直接の因果関係をもって哀しみを作出する行為が、なぜそんなにうれしいのでしょうか。
己の力が強いのであれば、その力は、力弱き者を助けるためにのみ使うべきなのではないでしょうか。
どうして、その強き力を自己、自己の家族あるいは自己が属する組織・業界、といった利己的な利益の追求のため、迷う事もせずに発揮できるのでしょうか。
自己の能力を高めるだけで、なぜ満足が出来ないのでしょうか。
どうして、何者かを打ち負かさねば気が済まないのでしょうか。
私は強くなりたい。それは間違いありません。
しかし、その力を自分の利益のために使うことはできません。考えただけで胸が痛みます。
人は自己(あるいは自己の周辺)の利益を図るなどということのために生まれてくるのではありません。
どれだけ自分を後回しにすることを徹底できるか、に挑戦するために生まれてくるのです。
それこそが、私を本当に変わり者たらしめている所以でもあるでしょう。
でも、そこにこそ、「私は恥を知っている」という意味で誇りをも感じているのです。
誰が何と言おうと。
得意の戯言でございます。お付き合いありがとうございました。
それでは、また!