時計は、左回りだと信じていた。12、11、10、9・・・。時はさかのぼるのだ。この家の時計はぜんぶ左回り。でもセカイはぜんぶ右回り。だからこの家はイカイ。時計だけじゃない。自転車も車もDVDだって、このデッキの中でバカみたいに右へ向かって回ってんだろ。とにかく左回りにしないとまずいんだって。なんかいもなんかいもなんかいも時計の針を左に回さないと。じゃないとさ、家族っていうの解散、てことになるからさ。なんかいもなんかいもなんかいもさかのぼったら、ゼッタイに母さんが生まれた時まで戻れるんだ。きっと。

んな訳ねーだろっ。

父は母が死んでから時計を見てばかりいる。何も言わず、必ずきちんと正座して、母さんの若かった頃の写真をそばに置いて、時計とその写真を目だけ動かして交互に見つめるのだ。ギロリッギロリッギロリッ。古いブリキのおもちゃは、畳の部屋でぺちゃんこの座布団にのせられ、目だけ動かしている。

父は、朝、時をさかのぼる時計の針が7をさすときに起き(つまり朝の5時)、一周まわってもう一度7をさすときに帰宅して早飯をすまし、それからその父だけの儀式をする。必ず外に出て行くし、おかげさまで僕とその妹の絵奈は生きているし、僕はマグロ漁船に乗るほどではないし、絵奈も女のマンホールは使ってないハズだ。父の儀式はいつも2時間と決まっている。そして、時計の針が3をさすときにはもう床に入る。水平になった時計針は、実は麻酔銃で、撃たれた父はピューリッツァー賞の有名な写真みたいにばたりと布団に倒れ込む。また、時計の針が7になるまで脇目もふらず眠るのだろう。

絵奈はこの家の空白部分を埋めるように、ハードでコアな音楽を大音量でかけながら眠っている。どうやら最近になって、額にピアスをあけたようだ。

この家から心臓の音まで吸い込みそうな父。この家に喉から肛門まで吐き出しそうな妹。僕はそのすき間で、自分だけがマックでバイトができそうな人材であると確信し、誰もがそうであるようにあのときのままの母を思い出しながら若者の義務を果たしていく。

お前らが眠るときしか!

右手の中で萎む、さっきまで割れそうだった風船、ティッシュがない時代は世界はどうなっていたのか、すげぇ臭え世界じゃないの。眠りにつく頃、バカみたいに太陽が顔を出す。

そのアホづらで、親父起こしてやってよ。拝みたおしておけば、明日は変わるだろ。そんなもんだろ、人生なんて。頭下げれば変わるだろ。焼けクソって、熱いのか。

起きたら、世界にはすんごい美しいクラッシックが流れていて、すんごいカリッとしてるのにやわらかい食パンの上に母乳みたいなスクランブルエッグがのってる朝飯出るでしょ。

どうせ2時間こうして目を閉じるだけだ。僕には、親父や絵奈みたいに夜が来ない。24時間コンビニエンスストアみたいに脳みそ開店中。光輝く僕の脳みそに、よってたかる過去の虫。ジリリッという電気ショックで、僕は10年前を思い出す。



その日、母は交通事故で死んだ。

絵奈が3歳で幼稚園に入ったばかりの頃だ。その日も桜並木の遊歩道を通って、母は絵奈を迎えに自転車を走らせていた。

小学校からの帰宅途中だった僕は、母がサーカスのピエロみたいに手をふってくるのが恥ずかしくて、友達と話すふりをしながら気がつかないふりをしていた。

母は少し悲しそうな顔をしてたけど、友達の前でカッコつけたい年頃の僕は、そんな母が嫌でたまらなかった。本当は大好きでたまらなかったのだけど。母は、上げた手をそのまま引き下げるのも気恥ずかしかったのか、ガッツポーズをして自転車の速度をあげた。

何かに挑むみたいに、ふりあげた拳と不釣り合いな寂しい背中が生きている母さんの最後の姿だった。

美しい母の砂の背中ー。

それは壊されてしまうから、美しかったのかもしれない。



今日も、いつも通り父はひっ、ひっ、ふぅー時をさかのぼる時計が7をさすとき寝室から起きたようだ。ひっ、ひっ、ふぅー。

雨がふっていて、まだ夜があけきってはいなかったけれど、父がガタガタいわせながらひっ、ひっ、ふぅーリビングへ降りていくものだから、リバイバル上映中だった思い出映画は突然エンドロールへとスキップしてしまった。

隣の絵奈の部屋からも、けだるい声が聞こえてくる。ハードでコアな音楽が止んでいる。ひっ、ひっ、ふぅー。うちのお姫様もお目覚めのようだ。

「にぃー、あの人きょうはやけにうるさいよ。」ひっ、ひっ、ふぅー。

いや、さっきまでのお前のハードでコアな音楽のほうが物理的にうるさかったぞ。

絵奈は父をあの人と呼ぶ。

だっているだけじゃん、絵奈も生意気言うようになったな。僕はまだそこまでは言えない。父は父だ。

いや、父と向かい合うことすら怖くて、言う機会すらない。

今の父は、植物みたいなもんだ。植物人間でもなくて、ただの植物だ。クローバーとかそういうの。しかも、四つ葉になり愛でられるための遺伝子を悪意によって組み替えられ、除草剤をまいたところで心など痛むはずもないクローバーみたいな。



ひっ、ひっ、ふぅー。ひっ、ひっ、ひっ、、、、しばらくして、もう一眠りしようとしたとき、リビングから拡声器でも使用したかのような大声が響いた。



「真一っ!すぐに下りてこいっ」

父が口を開いたのは、母が死んではじめてだ。それはもはや、日常を壊す悪魔のホルンのように思われた。



「母さんが産まれたぞ」

父は、笑顔だった。

何故か父は汗だくで、下半身を露出中。太ももを伝って、血が流れているのが気にかかる。とくとく、とくとくと流れる血が、畳の部屋から続いている。

「おはよう。真一!やっとなぁ母さん、産まれたんだ。すぐにあいつも起こしてこい」



僕は血をたどって畳の部屋をのぞきこむ。これまで、父が儀式を行ってきた座布団は血まみれで、真っ赤になった座布団の上に真っ白なたまごが鎮座していた。この紅白のコントラストといったら!なんてめでたい!産み落とされたたまごは、アメーバみたいなねっとりを纏い、さながら漢江の怪物が残した次の悪夢みたいだった。

父のケツから、母さんのたまごが産まれた。どうせなら口からにしてくれよ。ピッコロ大魔王みたいにさ。結局父から生まれた母さんて、何だよ。
母さんJr.かよ。

それは、俺だよ。俺だけだよ。

僕は、知ってる。
絵奈は違う。あいつは妹じゃない。

僕は慌てて、階段をかけ登る。それはどこか西洋のお城の階段をのぼっているみたいに長い時間に感じた。扉を突き破りそうなほど、絵奈の部屋の厳重にロックされた扉を叩く。それは、担任教師が、校長へのアッピールとして家庭訪問し、不登校ののび太くんを愛の力で、そして熱血の精神で登校させようってのとは格段にラベルの差が違う。ああ、僕をひとりにしないでおくれよ絵奈。ともにあの血まみれのモンスターに対峙しておくれよ。

「にぃ、ついにあの人、例の来た?」

絵奈がいつになく真剣に扉の内側から質問を投げてくる。その目の色。何人だ?何がカラコンだ。お前、保育園の頃からその色や。記憶はいつもそこから。お前は誰や。

例のって何や⁉

男子禁断の生理が来たみたいに。

例の⁉

確かに、生理現象ではあるのか。父の生理が来ましたよ。初潮ですか。赤飯炊きましょうか?

「やっぱり。ついに来たんだね。だって、今日はお母さんの誕生日だもん」

気安く母さんと呼ぶな!

突然扉から飛び出し、絵奈は階段を降りていく。畳の部屋の、母さんのたまごを見るとさして驚く様子もなく、それが当たり前かのように、裸になり(そばに男が2人もいるぞっ)母さんのたまごをあたためるかのように身体で包み込んだ。まさか、腹にかかえて割っちゃうつもりか。ねっちょりが絵奈にこびりつき、うぇっと僕は込み上げたものを抑えることができなかった。
畳の部屋は、父の血と、僕のゲロと、絵奈の裸と母さんのたまごがビビンバみたいに混ざり合って、もう現代アートの趣きだ。ホームレスの街で、おたくカルチャーがダッチワイフみたいな人形を置いてアートだと主張しているかのようだ。これは、我が家の現代アート。アバンギャルドで、生命感に溢れ、そして侘び寂びを知り尽くした芸術家の誕生だ。

シャワーを浴びる音が聴こえる。僕が小学校の頃大好きだったアニメソングを浴室で父が口ずさんでいる。

我が家の時計は、自らに与えられた役割を思い出したかのごとく、一秒ずつ右に回りはじめた。我が家は、セカイと交尾をはじめた。



その日、次の日、もひとつ次の日。絵奈は態勢も変えず、母さんのたまごをあたため続けていた。あれほど、父と同じ屋根の下にいるだけで臭くなりそうだと日に三回も風呂に入っていた女が、この三日間手すら洗っていない。時折目覚めると、長く伸ばしていた黒髪を引きちぎりたまごを温めるようにまわりに置いた。まるでそれは何世紀も前から決められている儀式のようだ。父はもう風呂場で歌う曲目もなく、ついには童謡でごまかしている。軽やかでバカのんきなメロディーを子守唄にして、絵奈はうつらうつらしている。それでも半開きの目は、眠り込みそうになることに拒否反応を示し、
ぐっとこらえようとしていたが、絵奈は思わずたまごに指先を立てて踏ん張ろうとしてしまう。

割れる!

そう思ったとき、ポッキーを割るみたいなちっちゃい音がして、たまごからにょっとバービー人形みたいな右手が空へと伸びた。

まだ、手のひらを開くことができないのか、固く拳は握られている。

それは見紛うはずもない、母さんのガッツポーズだった。たまごの天井をつきやぶり、母さんはセカイに帰ってきた。



おかえり。





絵奈はずっと眠っている。たまごは、ガッツポーズの右手が登場して以来特に変化はない。こうして見ると、ただのディスプレイみたいだ。どう考えても最低のセンスだけど。

僕は恐る恐る絵奈を揺すってみる。どうやら死んではいない。となると、気になるのはたまごのことだ。

突き出た右手は、そもそも人間なのか?手羽先の骨みたいな大きさだ。やっぱり人間みたいな爪もある。そもそも、たまごから産まれる哺乳類ってのは確かカモノハシと、あとはハリモグラみたいで(これは今ネットでちゃちゃっと調べただけなんだけど)、てかどっちも見たことないし、とは言えこれがハリモグラと名付けられた生き物とうこともなかろう。むむむっ、殻をめくってみたい。

ぺりぺりしてみたい!

人は欲望には勝てない。いや、最初っから勝つ気がない。手は恐る恐るそのたまごに伸びていた。

そのとき、絵奈の首がびくんと跳ね上がり、僕は飛びのく。

「絵奈、絵奈っ」

お前より、たまごだ。

ついつい目はたまごにいってしまう、、、

目を疑ったのは次の瞬間だ。たまごの中から突き出したガッツポーズは、人差し指を立てて絵奈を指す。

やっぱり、生きてるっ!そして絵奈と目が合う。ん?合う。合わない。絵奈は白目で、僕を見つめている。黒目はどこに落とした?こういう場合、やっぱり救急車を呼ぶのかな。もうわけがわからない。やっぱり絵奈を病院に連れていかないと。絵奈に手をかけたとき、たまごから「ひえっ」と聞こえた気がした。気のせいかもしれないが。声は悲鳴のようにも聞こえた。そして絵奈から離れないたまご。


「何だよこれっ」


僕は思わず声を上げる。絵奈とたまごは、どくどくと蠢く繊維みたいなものでつながっていた。まさか臍の緒とか?それは絵奈の寝巻きがわりのトレーナーのちょうどへそあたりを突き破って、たまごとつながっていた。ほんとなら、体の中で育まれる愛が、こんなむき出しとはいかがなものだろう。僕が吐き気をもよおしている間も、たまごは着々と絵奈から養分を絞りとる。

「だいじょぶ。こいつは心配ない。というか、心配するほどの存在じゃない」
風呂上がりでサッパリした表情をうかべ、発泡酒をのみながら父がのん気に現れる。畳の部屋には目もくれず、ソファーにどっかりと腰をおろし、そのままテレビをつける。
テレビからは、最近人気の若手お笑いコンビがよくわからない言語をふざけながらしゃべっているのが聞こえてくる。知能指数の低い番組ばかりだ。
「真一っ、臨時が入ってるぞぉ。やっぱり、やっぱりみんな今日狙ってんな。母さんも上手くファクトリーにもぐりこめるといいが。復活祭まで時間はあまりないからな。」
父はボソボソとテレビにむかってひとりごとを吐く。見たかったのは、お笑いコンビじゃなくて、テレビの臨時ニュースらしかった。
しかたなく絵奈とたまごから目を離し、テレビを見たが、父は満足したらしくすぐにリモコンの電源ボタンを押した。
「おいっ!お前何急に普通ぶってんだよっ!何だよあのたまごは。てか、狂ってんの?イかれちゃった?てか、絵奈ヤバいよどう見てもっ。」
糸が切れた。
「デカい声だすなよ、真一。たまごには母さんが入ってるぞ、もちろん。でも、まだまだぐちゃぐちゃのスープ状態で、形成に成功したのはあの右手だけのようだ。まったく役に立たないホリョだ」
ホリョ?捕虜?
僕はわからなくなる。なぜうちなんかに捕虜がいるのかな?誰の捕虜なの。母さん、たまごの中にほんとにいるなら教えてくれよ。
父はお構いなく、あなたが忌み嫌う体育教師さながらの絶倫ぶりでガッツポーズをふりあげ、これからの予定を宣言する。
「真一、ファクトリーへ行くぞっ。」
男なら当然だ。お前は俺の本当の息子だからな。んたら、かんたらと話は続いているようだったが、僕は耳をふさいで、部屋に戻った。
糸を結びなおさないと。


つづく







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