八条氏館
【別名】
八条五郎光行館
【所在地】
埼玉県八潮市八條4067-2
【城主】
八条氏
【遺構】
消滅
【城郭形態】
館
【駐車場】
なし
【歴史】
八条氏館は鎌倉御家人・八条氏によって創建されました。
以後、戦国末期まで続いたと伝わっています。
八条氏は野与党出身の御家人で、大河戸御厨内八条郷の地頭職です。
野与党渋江氏の一族である箕勾経光五男、渋江光衡が八条郷に住むようになってから八条五郎光平と名乗ったと伝わっています。
文亀4(1504)正月8日、葛飾東新方領主向畑城主・新方次郎太夫頼希との争いが起こり新方郷に攻め込み新方勢は同じく手勢を率いて向畑城に出馬して小林郷に対陣しました。『向畑合戦』
同月晦日、新方頼希が兵を進めて大いに血戦し一旦は八条氏を打ち崩したものの深追いして流箭の為に命を落し新方家は敗北しました。
永正17(1520)10月、新方頼希の兄の高賢上人(清浄院)は、縁者を集めて向畑城に夜討ちをかけ、八条氏家臣別府三郎左衛門が討死して城を奪還。
永正18(1521)正月、八条惟茂は自身で1000人を引き連れて本陣として、先陣に青柳外記、小作田隼人、柿木小膳ら850人、2陣に大相模飛騨守、西脇左近右衛ら500人とともに別府郷へ出陣。ここに新方勢が夜討ちをかけ、別府氏、青柳氏、柿木氏らが総崩れとなり八条惟茂の叔父・大曽根上野介も大相模へ出陣しており別府へ駆けつけて新方勢の背後を襲って優勢になった。
しかし新方勢の安国浄恩の兵が大曽根上野介の背後を攻めて大乱戦となった。小作田隼人が身代わりとなって討死して八条惟茂はからくも八条郷に逃げ帰ったという。八条勢は850余人、新方勢は324人が討死したといわれています。
遺構は以前、土塁と空堀があったのですが宅地化が進み消滅しています。