あの家を出て、一人暮しを始めた愛梨。生活は苦しかったが、暴力からは逃れられた。今まで経験してこなかった、女の子同士の友人関係。それを作ってみたいという欲求が少しずつ芽生え始める。バイトで忙しかったら、そんなにたくさんではないけれど、一緒にランチをしたりカラオケに行ったり、話題のお店やテーマパーク、名所旧跡にも、遊びに行ったりも出来た。ほんの少しだけれど…。それでも、少しずつ、失われた何かを取り戻す、いや、何も描かれていなかった真っ白なキャンパスに、いや、真っ黒に汚れ、ボロボロになったキャンパスを、修復しながら、不器用でも拙くても、少しずつ自分の色で埋めていくような、痛々しい作業だった。

 それが、愛梨の壊れた心の修復に繋がっていたのか、健全な心を育て直す作業の過程だったのか、本人には知る由もなかったが、それでも愛梨は、生れて初めての体験に、ドキドキしたり心が温かくなったり、楽しかった。女子同士の面倒臭い関係性、深い仲間意識と親密性、それに相反しながら同時に存在する競争心。決して男の子を取り合うだけではない、女子同士特有の嫉妬とマウントの取り合い、序列感覚に晒され、時には戸惑い動揺し、時には嫌になりながらも、それでも愛梨は楽しかった。

 そもそも愛梨には、他の女の子と何かを張り合うような感覚は全くなく、自分はとても彼女たちと同じ土俵に立っているという感覚はなかった。そういう意味ではまだまだ自己肯定感は低いままだったのかもしれない。ルックスは飛び切りの美少女なのに、ちょっと変わった子という印象は、短大の同級生からも変わらぬ評価で、さすがに中高生時代とは違い、周りはそんな愛梨の個性を温かく受け容れてくれていた。愛梨の通う学科は女子だけで、日常、教室に男子がいなかったことも大きかっただろう。学校では警戒心や嫌悪感を抱く機会もなく、男子のいない環境で落ち着いた学生生活を送ることが出来た。

 そう、そして、店長と、信治と仲良くなりたかった。あの家を出て、1人で上京し、最初に親しくなったのが店長だった。短大に入学し、同性の友達が出来る前に、先に信治と出会った。優しかった。なにかれと世話をやいてくれ、気にかけてくれた。信治は、愛梨にとって初めての【親和欲求】の対象だったのかもれない。恋心とは言えない。いやそもそも、恋をしたことがない愛梨にとって、自分の信治に対する思いが恋なのかどうか、過去の経験に照らし合わせることも出来ない。これは「愛着」だ。「アタッチメント」だ。児童心理学でいう「愛着障害」だ。幼少期に、充分な愛情を注がれなかった子どもが、大人になって誰かにその代償を求め、特異な心理状態と様々な問題行動を起こしてしまう現象。愛梨は自分の感情をそう分析した。この、訳の分からない感情、とにかく信治と仲良くなりたかった。

 店のスタッフの中には、愛梨と似たりよったりの年齢の大学生アルバイトも何名かいたが、信治が自分以外の子と話していると、愛梨は強烈な嫉妬を感じてしまう。心が、胸が張り裂けそうになり、顔から血の気が引いていき、居ても立ってもいられなくなるのだ。自分でもビックリしてしまうほど、不安と焦燥感に駆られてしまう。店長を盗られちゃう、店長が他の子を見ている…、イヤだ!店長!私を見て!と思ってしまうのだ。苦しい…。私はなんでこんなにイライラしているの?店長はただ仕事上の指示を出しているだけなのに…。店長が自分以外の子に目を向けているのを見るのが辛いのだ。

 驚いたことに、と言うべきか当然と言うべきか、この嫉妬の感情は女の子だけでなく男の子にも向けられた。仕事上でミスをしてしまい、気を落している男の子に、信治は明るく声をかけ、肩を叩き元気付ける。『大丈夫だから、気にすんな!』優しく背中に手を当てる。そんな姿を見て、愛梨はヤキモチをやいてしまうのだ。何?あの子!何であんなに優しくしてもらってるの?ズルい!私もグラスかなんか割ったら、同じように店長に触ってもらえるの?わざとミスしたり、その子に意地悪をしたり、信治に八つ当たりをしたりしたくなる衝動。こんな、弟にさえ持ったことのない猛烈な嫉妬の感情、初めての感情。愛梨は動揺した。自分の感情を持て余す…、気持ちの持って行き場を捜す、必死に自分を抑え込んでいた。

 こんなことを感じてしまう自分はおかしい。店長は何も悪いことはしていないし、私に意地悪なんてしていないんだ、悪いのは私、私が勝手に苦しんでいるだけだ。これは「愛着障害」なんだから。愛梨は自分で自分を慰める、説得する、言い聞かせる。でも、店長に自分を見てほしい、他の子を見ないで私を見て!店長に触れたい、自分にも触れてほしい、精神的にも肉体的にも。ただそれは性的な欲求ではない。本音を言えば、甘えたくて甘えたくて仕方がないのだ。もう大人なんだから、子どもみたいに甘えることは出来ない。そもそも店長と自分は、そういう間柄ではない。我慢しなければ…。変に馴れ馴れしくベタベタしたら、変な子だと思われてそれこそ嫌われてしまう。そんなのは絶対に嫌だ。愛梨は自分を抑え込む。それでも、信治に恨みがましい視線を送ってしまったり、勝手にプンプクしたり、してしまったかもしれない。

 居酒屋でのバイトを辛いと思ったことは1度もない。忙しくて大変だったし、時々、嫌なお客もいたし、他のバイトの子に嫉妬して苦しんだりもしたけれど、でも、信治と、同じ空間で同じ時間を共有していることが心地よかった。

 

 短大の1年生の冬、春がそこまで迫っている頃、愛梨が家を出て、ちょうど1年後のことだった。同級生とお茶している時に、たまたま声をかけてきた男。同じ店で何度か顔を合わせた。大学3年生だと言っていた。しつこく言い寄られ、バイトで忙しいから逢う時間なんて取れないよと、何度も断ったのに、それでも拝み倒されて、ちょっとだけ付き合った。その男が、自分を心から愛しているとは到底思えない。あなたは私の何を知っているっていうの?顔がきれいな女の子の、身体目当てなのは見え見えだった。妙に自分に自信がある男。この女を絶対に落としてやるって思ってるんでしょ?過去にも何度かこういうタイプの男はいた。何人もの女とそういう関係になり、自分は手慣れていると己惚れている男。でも、愛梨にとって、初めての彼氏。いや、彼氏なのか?そこに普通の恋心など微塵も存在していなかった。彼の姿を見て、彼の声を聞いて、ドキドキなんて全くしなかった。彼からの連絡を心待ちにして、何度もスマホを確認する、そんな、胸が熱く痛く苦しくなるような想いも、彼のことが頭から離れないなんていう切なさも一切感じることはなかった。

 じゃぁなんで付き合ったの?愛梨は実験してみたかった。リハビリをするような感覚。私は、男の子と恋愛が出来るのか?試してみたかった。何度か2人で会い、何度目かのデートの帰り、夜の、海の見える公園でキスをされた。身体が固まった。耳が、耳の奥がキーンと鳴って…。記憶が…、頭の中の記憶というより、身体に刻み込まれた記憶が…、記憶が蘇るスイッチが入ってしまう。動悸が激しくなり、過呼吸になった。苦しくて、その場を逃げ出した。あ、私、逃げることが出来るようになったんだ。あの頃は、逃げることも声を上げることも出来なかったのに。愛梨は自分で自分を褒めたくなった。

 愛梨は、特に好きでもないこの男に、身体を許す決心をする。私は男の人とまともに性行為が出来るのか?実験してみたい。暴力を伴わない性行為、多分…、あの男が普通だとは思えないが、自分が大人しく言うことを聞いていれば、継父のように無暗に殴ることはしないだろう…、多分…。愛梨はそう思った。

 家に帰ってから、逃げちゃってゴメンなさいとLINEをした。今度、心の準備が出来てからねと伝えた。心理学を学び始め、自分の心理に興味があった。私のような虐待サバイバー、特に性的虐待を受けてきた自分は、恋人と、いや恋人とは言えないかもしれないけれど、男の子とセックスが出来るのか、自分がどんな心理状態になるのか、興味があった。恋心が芽生える前に、強烈な性体験をしてしまった自分。しかも、とてもまともとは言えない性体験。授業で教わった性的虐待事例、その後の影響、私は?私はどうなるの?それは危険な火遊びだったが…。愛梨は自分を変えたかった。

 その日、日曜日で学校は休み。夕方からは、いつものように居酒屋でバイトだ。昼前に男の部屋を訪れた。軽食をつまみながら、2人でDVDを見てまったり過ごした。そして…。服を脱がされている時から、頭の中で何かがワンワンと鳴り始めてしまう、あの時のように。苦しい…。身体が思い出してしまう、蘇ってしまう。鳥肌が立つ、身体が硬直する。不快感、嫌悪感、悲鳴を上げそうになる自分と必死に戦う。でも、胸を、乳房を露わにされ、男が乳首を口に含んだ瞬間、愛梨は堪え切れずに悲鳴を上げてしまった…。それでも、最後までやり遂げたかった。愛梨は闘っていた。誰と?何と闘っているの?高1の時、同級生の男子とした初めてのセックス。あれ以来の、継父ではない男性の、性器の挿入まで、何としてもやり遂げたかった。継父のトラウマを乗り越えるために?私はこの男と、好きでもないこの男とセックスをするのか。私は何をやっているんだろう。私は囚われている。まだ、今でもまだ、継父の呪縛に囚われている、縛られている。あの時と同じだ。継父から逃れるために、好きでもない男とセックスを…。その痛々しい行為は、ただ、痛くて、辛くて、虚しくて、悲しかった。

 ことが終わって、愛梨は早々に男の部屋を後にした。もう2度と会うことはないだろう。あの高1の秋、彩人君、私のこと覚えてる?あの時はゴメンね、本当にゴメンなさい…。それなのに、私、また同じことをしちゃったのかな…。私って最低だ…。ごめんなさい彩人君…。今回は、あの時と違って後悔している…、自分の行動、行為そのものへの後悔。こんなこと…しなきゃよかった…。でも、彩人に対して抱いた、申し訳ない気持ち、ゴメンなさいという気持ちは、この男に対しては、一切起きなかった。

 店に向かう。昨日と同じように。店長が元気に開店準備をしている。「あれ?愛梨ちゃん、早いね!」いつもと変わらず、自分を温かく迎えてくれる店長。早く来過ぎてしまったのだが、愛梨には他に行く処はない。早く店長の顔が見たかったから。早く店長に会いたかったから。早く店長の元に帰りたかったから。それなのに、あんなに会いたくて早く来ちゃったのに、愛梨は信治の顔をまともに見られない。自分が、とんでもなく悪いことをしてきてしまったかのような、強い強い罪悪感を覚えた。我慢出来ずにトイレに駆け込み、声を押し殺してひとしきり泣いた…。店長、ごめんなさい、ごめんなさい、私、悪い子です。もう2度とあんなことしません。赦して!赦して下さい。ごめんなさい!嫌いにならないで!愛梨のこと嫌いにならないで!お願い!愛梨は、泣きながら心の中で、何度も何度も信治に謝った。ごめんなさい…。まるで、自分を、大切に愛し慈しんでくれている父親を、裏切ってしまったような罪悪感だった。