「ストックホルム症候群」人質や被害者が、自分を脅迫または虐待している人間に対し、共感や愛情を示す心理的現象。1973年、スウェーデンで起きた銀行強盗立てこもり事件で、人質が犯人に対して同情的な態度を取り、事件解決後の裁判でも、減刑を求める嘆願書を提出した事件を元に命名された現象だ。勿論、憎しみの感情の裏返しの心理なのだろうが…。人間は、自分に敵意や害意を向けてくる相手に対しては、容赦なく攻撃出来るのだろうが、自分に親愛の情を示し、頼り甘えくる相手に対しては、無慈悲に殺すに忍びないという心情が起きる、それは確かに納得できる。『私はあなたの敵じゃないよ、あなたの味方なんだよ』『あなたの気持ちは痛いほどわかるよ』『私はあなたのことが大好きなんだよ』生殺与奪の権を握る人間から、自分の生命を守りたいという自己防衛本能のなせる業だ。第二次世界大戦中、戦場で敵兵に捕らえられたドイツ兵が、必死に英語を喋り、自分を今殺すかもしれないアメリカ兵に対し、親愛の情を示し媚びへつらう態度を示した事例。また、レイプ被害者の女性が、レイプ犯に対して疑似恋愛感情を示すケースが報告されるのも、これで説明できるのだそうだ。被虐待児童が、虐待しているはずの親に対し、愛情を示す現象に通じるものがあるのだそうだが…。そうなのか?愛梨は違和感を抱く、納得出来ない。子どもが、親を大好きで、自分を愛してほしいと思うなんて、そんなの当たり前じゃないか。人質と犯人?レイプ被害者とレイプ犯?違う!そもそも前提が全く異なる。私と継父の関係は、まさしくあれはレイプだった。怖くて身体が動かなかった、声も上げられなかった。恐怖と痛みに怯え、言う事を聞くしかなかったけど、私は継父に対して、共感も愛情も同情も、微塵も感じたことはない。ただただ、不快感と嫌悪感、そして恐怖の対象でしかなかった。違う、これは全く別の現象だ。

 

 また、「マズローの5段階欲求」という理論を学んだ。子どもの、人間の欲求には、下から【生理的欲求】【安全欲求】【親和欲求】【承認欲求】【自己実現欲求】の5つの段階があり、下部欲求が満たされないと、上部欲求は生まれてこないというものだった。被虐待児童は、最初の二つが実現されていない。ご飯がまともに食べられない、眠れない、殴られる…。そんな状況下では、誰か他人と仲良くなりたいという【親和欲求】さえ生まれないのだ。虐待サバイバーの子どもたちが、大人に、いや、子ども同士でさえ心を開かない、笑わない、喋らないことがよくあるのは、そういうことだ。虐待現場は、戦場と比喩されることがある。短大の先生が『ランボー』という映画の話をしてくれた。戦場から戻ったばかりの帰還兵、自分は未だ戦場にいるという感覚が抜けきれない。何かの拍子にフラッシュバックが起きてしまう。平和な日常を送る、周りの一般市民の感覚や常識とのズレ。その間に生まれる乖離と軋轢。虐待サバイバーの子どもたちは、この帰還兵のようなものだ。生命の危機にさらされているという感覚が抜けきらず、何かの拍子にスイッチが入ってしまう。自分を虐待家庭から救い出し、優しく保護してくれているはずの職員に対し、大人に対し、反抗的、攻撃的な言動をしてしまう。それは、自分の命を守る為に、恐怖に怯えながら、必死に戦おうとしているのだ。【安全欲求】が、確実に担保されたと実感できるまで、【親和欲求】は生まれてこない。愛梨が周りに心を開かず、しかめ面で、誰も自分に近付けようとしなかったのは、日常的な虐待に怯え、周りへの、特に男子への警戒心を解けなかったからだ。

 そんな子どもたちに、【親和欲求】さえ満足に芽生えていない子どもたちに、一足飛びに「あなたは将来に何になりたいの?夢はある?」なんて訊くことが、いかに的外れな質問かわかるだろう。そんな質問をされて、答えられるわけがない。想像したり考えたりする事さえ出来ないのだ。意味がわからない、この人は何を言っているの?何を聞きたいの?私に何を言わせたいの?というのが子どもたちの偽らざる本音だろう。

 え?でも私って…、愛梨は思う。心理士になりたいって、児童心理学を学びたいって、【親和欲求】も【承認欲求】もすっ飛ばかして、いきなり【自己実現欲求】が生まれてきたってこと?こんなもの当てにならないな、とも思った。でもまぁ、心理士になりたいっていうのは後付けだったんだろうな、たまたま…。あの家を出る為の、【生理的欲求】と【安全欲求】を実現する為の、手段でしかなかったのかもしれない。じゃぁそういうこともあるのかな、とも思った。

 

 愛梨は、短大で児童心理学を学んでいくうちに、自分の生育環境が、いかに劣悪で、自分は明らかに被虐待児童だったこと、幸運にも虐待を生き延びた、虐待サバイバーであることを、はっきりと認識していく。高2の頃、愛梨も激しい自死願望に苛まれていた。危険だった。一歩、紙一重、愛梨も自ら命を絶ってしまっても何の不思議もない状態だった。でも私は生き残った…。一体、何を支えに?でもとにかく生き残った。何の為に?あの家から出ること、それが私の生きる目的だった。では今は?あの家を出ることが出来た今、私は何の為に生きているのだろう、それはわからない…。でも今は、生き残ったことに感謝している。ただ、これからの先の人生で、生き残って正解だった、生きていてよかったと思える日が本当に来るんだろうか。やっぱりあの時死んじゃえばよかったのに、なんて思うのかもしれない。でも今は…、私は生きている。

 恋愛なんて、男の子を好きになるなんて、男の子に自分のことを好きになってほしいなんて、そんな欲求が生まれるわけがない。自分は恋愛に興味がなかった。いや、興味がなかったというより愛梨の思考の中に、そんなものは全く存在していなかった。考えることも、そもそもそんな発想がなかった。そうか、そういうことだったんだ。愛梨は納得した。

 

 自死願望を抱えている子どもたちの多くは、自己肯定感が低い。それはわかる気がしますね?誰からも愛されていない自分には、生きている価値なんてないと、自分はいらない人間なんだと、頑なに信じて凝り固まっています。自暴自棄、どうなっても構わないという思いに囚われています。

 あなた方も、日常生活の中で、心を砕き、一生懸命心やっているのに、なかなかうまくいかない、裏目に出る。しかもそれが続いていくと、へこんでしまいますよね。もう駄目なんじゃないか、私なんかには、無理なんじゃないかと、どんどん悪い方へ悪い方へネガティブな思考に囚われてしまう。誰かの、何かのせいにしたくなる、心が荒んでいくのです。心が壊れていくのです。何を見ても何をしても、心が抑圧されていて楽しいと感じられない。誰かを恨むような気持ちを持ってしまう。もうどうでもいいよと投げやりな気持ちになってしまう。真面目に生きているあなた方は、そんな経験の1度や2度、あるでしょう。自死願望を抱えている子どもたちは、その状態が、ずっと、毎日、何ヵ月も続いていると思って下さい。そしてね、ここからが大事な処です。そんな時、あなた方はどうしていますか?何かで発散したりしながら、それでも、こんなこと思っちゃいけない、そんな風に考えちゃダメだ、もう1度、顔を上げ、前を向こうとしますね?みなさん、どうかよく聞いて下さい。あなた方が、そんな風に頑張れるのは、ご両親や周りから、しっかり愛されて、愛情を受けて育ってきたからなんですよ?そんなこと考えたこともなかったでしょう。愛されて大事に育てられたからこそ、健全な心がしっかり育っているんです。だから、壊れかけた心の修復が可能になる。あなた方は、そんなこと意識出来ていないと思いますけど。でも、被虐待児童、自死願望を強く持ってしまっている子どもたちは、愛されずに育った子どもたちは、そこで、頑張れないんです、前向きな気持ちになれないんです。壊れてしまった心を修復することが出来ずにいるのです。

 この先、生きていても『嬉しいこと』なんてない。『楽しいこと』なんてない、と訴えられたら、あなた方ならどう返してあげますか?どんな言葉をかけてあげますか?そんなことない、と、まず全力で否定してあげて下さい。これから大人になって、嬉しいことも楽しいこともたくさんあるんだよと答えてあげて下さい。彼ら、彼女たちには、『嬉しいこと』も『楽しいこと』も、本当にないのでしょうか。勿論、虐待環境にいて、嫌なことばかりで、そういう側面があるのは動かし難い事実です。毎日、無視されたり怒鳴られたり殴られたりの繰り返しです。しかし、ここで見落としてはいけない重大な、大切な大切な事実があります。『嬉しいこと』を嬉しいと感じられない。『楽しいこと』も楽しいと感じられない。なぜでしょうね?そういう出来事が全くないから、ではないんです。本当は、少しかもしれませんが、毎日の生活の中で、それはほんの些細なことかもしれませんが、確かに存在しているのです。でも、彼らはそれに気付けない、感じられない。被虐待児童、自死願望を抱えている子どもたちは、嬉しいことを嬉しいと感じられない、楽しいことを楽しいと感じられないのです。なぜだと思いますか?もうおわかりですね?心が壊れてしまっているからなんです、心が育っていないからなんです。美味しい物を食べて美味しいと感じられない、これは味覚が未発達なんですが、同時に、心が未発達だからなんです。野に咲く花を見て、何も感じない、可愛いともきれいだとも思わない。白い雪景色、青い海、山々、満天の星空を見て、仔犬や仔猫を見て、何も感じない、心が動かない、それは、健全な心が育っていない、心が壊れているからなんです。極端な例では、空腹感や暑さ寒さも感じにくくなってしまうという事例もあります。これなどは、完全に心理的要因が肉体にまで物理的な影響を与えてしまっている例ですが…。

 ですから、【安全欲求】が確保され、【親和欲求】も【承認欲求】も満たされ、自分が誰かから愛され大切にされている、自分は必要とされているんだという実感が持てれば、少しずつ少しずつ自己肯定感も上がっていきます。それから、それからなんです。それからやっとなんです。壊れた心を修復する、健全な心を育て直す、それからなんですよ。でも逆に、心の健全な発育が実現できれば、『嬉しいこと』も『楽しいこと』も、たくさん出てくるのです。それは長い道のりかもしれません。でもその日は必ず訪れます。みなさん、どうか、自信を持って答えてあげて下さい。これから、『嬉しいこと』も『楽しいこと』も、たくさんたくさんあるんだよと。

 

愛梨は、先生から目が離せない、じっと話に聞き入ってしまう。自分がボロボロと涙を流していることにさえ気付いていない。先生は私に言い聞かせているんじゃないか、普通の授業なのに、自分に言われているような錯覚。そうか、私は耳を塞いでいた、目を閉じていた、色んなことから…。気付けなかったんだ…。私の心は、今も未だ壊れたままなのか、それはわからない、ちゃんと、これから修復して、健全な心が育っていくんだろうか…。先生が愛梨に視線を向ける。

やば!泣きながら一心に先生を見つめている愛梨、そんな自分にハッと気付き、我に返る。変に思われた?何かバレちゃった?心理の先生だもん、何かわかっちゃうものなの?やばい…、愛梨は慌てて先生から目を逸らした。