私は、「殺してはいけない生き物と殺してよい生き物を区別し、
特定の生き物を食べることには負い目を感じないようにする」とい
う後者の立場に立つ。
前者の「他の生き物を殺す罪悪感を背負う」とは、一見もっとも
らしく、人間の理想的なあるべき態度に見えるが、明確に現実的で
ない。そもそも「罪悪感を背負う」とはどういうことなのか。毎回
食事の度に、他の生き物の命を奪った罪悪感に苛まれ、自責の念に
駆られながら、暗い気持ちで食べていくということなのか。それと
も、普段は意識せず忘れていたとしても、例えば年に1度でも供養
の気持ちを持つ日を作るのか。それは一体誰に対するパフォーマン
スなのか、本当に「罪悪感を背負う」ことになるのか、甚だ疑問で
あり、現実には不可能であるように思える。
さて、何を食べ、何を食べないのかという問題は、その国や民族
の伝統・文化、宗教などに深く関わる繊細な問題であり、他国や他
民族が安易に批判すべきではない。よって、国家レベル、世界標準
での統一基準が設定できない以上、これは極めて個人的な心の問題
である。「殺してはいけない生き物と殺してよい生き物の区別」は、
1人1人が、他人の意見も参考にしながら、誰にも批判されること
なく、自分の意志・嗜好で決定すればよい問題である。クジラやイ
ルカを食べる権利は保証されるべきであり、また逆に、それを食べ
ない権利も保証されるべきである。統一する必要など全くない。ビ
ーガンしかりハラルフードしかりである。
この考え方こそ、多様性を認める多文化社会、その根底にある異
文化理解に繋がる意識に他ならない。さらに言えば、思想・宗教と
同様、強制的でない限りにおいて、自分の主義・主張を相手に勧め、
世界に広めようとする権利も、またそれを拒絶する権利も認められ
なければならない。
〔30字×27行 約800字〕