信治は、ドリンクバーから自分のコーヒーと、愛梨のミルクティーのおかわりを運んできてあげた。ありがとうございますと一口飲んで、少し落ち着いた表情を見せる愛梨。ひと息つき、愛梨の独白は続く。

「でね、店長…、私、高3になって、5月の連休中に、母に話があるって言われて…。その、高校を卒業したら家を出て行ってくれないかと言われました。私もそのつもりだったんで、特に驚きもしませんでしたけど、中学の頃から、家の中のことは、ほぼ全部私がするようになってましたから、私がいなくなったら、困るんだろうなって、ぼんやり考えもしましたけど…。まぁ、母の『家を出ていく』という言葉は『親子の縁を切る』という意味なんだろうなって、何となくわかりました。私も覚悟はしていましたし、自分でもその道を選ぼうと思っていたのに、やっぱり母の口から直接言われるとショックでした。勝手ですよね…。あ~終わっちゃうんだって…。母がなぜ私を捨てる決心をしたのか、いつから決めていたのか、今となっては全くわかりません。私の方も母を捨てるつもりだったんだから、母を責めることは出来ませんけど…。元々愛情がなかったところに、弟、愛する息子も生まれ、もう小学生にまで成長していましたし。これ以上ここにいたら、また継父に何かされるんじゃないかって、母として娘の身を案じたのか、いや、それはないな…。むしろ、自分の夫の性的好奇心が、自分ではなく娘の私に向いていることに嫉妬し、許せなかったんだと思います。

 で、1枚の紙きれというかメモと、お金を渡されて、明日ここに行ってきなさいって言われたんですね。私の住んでいた市から、同じ県内でしたけど、電車で3時間くらいかかる、大きな市でした。

 ずっと1人で、小中高と、家族旅行も修学旅行にも行ったことがない私は、こんなに遠くまで来たのは、と言うか、生まれ故郷の町から出たのも、その時が初めてだったんです。ワクワクしました。でも都会の喧騒にびっくりして、圧倒されました。テレビの中の世界だ~って、妙に感動もしました。笑っちゃいますよね。どんだけ田舎者なんだって…。

 それで、指定されたファミレスへ行くと、四十代後半くらいの、見知らぬ男性が待っていたんです。私が玄関から入ると、入口近くに立っていて、迎えに出てきた感じでした。『愛梨か…』て。割と身長は高かったです。きちんとスーツを着て。私、その男に促され、席に連れて行かれて、私を待っている間、1人でコーヒーを飲んでいたようでした。私の方は『誰?この人…。』て感じだったんですけど、その男性、私を一瞥すると、『まぁ座って。』と言いました。」

ここで、ひと呼吸おく愛梨。

「実父だったんです。」

「え?そうなの?本当のお父さん?生きてたの?」

「そう、そうなんですよ。私の記憶の中で、母が父のことを話題にしたことは一度もないんです。本当に小さい頃は何もわからず、でもだんだん、周りの子には、みんなパパとママがいるのに、ウチはママと自分の2人だけって、わかってくるじゃないですか…。で、『愛梨のパパは?』て、一度だけ聞いたことがあるんですよね。でも、母、いきなり不機嫌になって怒鳴り散らかして、『2度とそんなこと口に出すんじゃない!』て、こっぴどく怒られました。だから、それ以降は一度も…。生きているのか死んでいるのかさえ、知らされていませんでしたから。17歳になった自分の目の前に、突然知らないおじさんが現れて、『お父さんだよ』て言われてもねぇ…。びっくりしたというより、ウソでしょ?て感じでしたね。現実感がない…、ホントに?何の冗談?て思いましたよ。自分に似ているかって言われても、う~ん、女の子って、子どもの頃は男親に似るって、よく言いますけど、自分ではよくわかりませんでしたね。ファミレスの店員さんにも、どう見えていたのか…、父と娘に見えていたのか、それとも、中年のおっさんと援交女子高生とか?」

愛梨は、そう冗談を言って少し笑った。おそらく、信治は思う。愛梨の容姿の美しさは、間違いなく両親から受け継いだものだろう。お父さんもお母さんも、きっと美男美女だったんだと思う。特に母親は、個人の主婦売春でお客が付くのだから、性格・人格はともかく、美人だったのだろう。そして、若かったのか?何の根拠もないが、愛梨の母親は、愛梨を産んだ時、二十歳そこそこ、いや、もしかしたら10代だったのかもしれない。現在19歳の愛梨、その母親だが、下手をすればまだ30代なのかもしれない。信治とほぼ同年代だ。そして愛梨に似ていたのかもしれない。もしかしたら、愛梨の、きれいな髪も、色白できめ細かい肌も、鹿のような瞳、涼しげな目元は、お母さんそっくりなのではないか。可愛らしい口元も…。自分そっくりの美人に成長していく娘に、嫉妬を覚えたのかもしれない。信治は、ふと中学・高校時代の愛梨に想いを馳せた。こんなにスタイルのいい美人さん、男子の間で話題にならないはずがない。男の子に何度もコクられたことがあるのだろう。でも…、今でこそこんなに明るく元気な笑顔を見せる愛梨だが、中学・高校時代は…、貧困家庭の子で、周りに壁を作り、しかも家では身体的虐待も性的虐待も受けながら、いつも憂鬱そうに下を向いて、しかめ面をして、無口で滅多に笑わない子だったのか…。想像がつかない…。

 

「その男、私を見て、懐かしむでもなく、大きくなったねと目を細めるわけでもなく、愛おしそうに見つめるわけでもなく、何の感情も読み取れないような冷たい視線を私に向けて、『今の俺には、俺の生活がある。これで終わりにしてくれないか。』と言って、私名義の、預金通帳と印鑑を差し出しました。三百万、入っていました。それだけです。時間にして3分弱。連絡先はおろか、名前さえ聞きませんでした。もう今では顔も思い出せません。今、道でばったり会っても全く気付けません。そう言えば、あの男は、なぜ私が愛梨だってわかったんでしょうね。予め、約束の時間や服装、背恰好なんかを、母から聞いていたのかもしれませんね。入り口が見通せる席に座って、それで気付いたのかもしれません。

 父と娘の再会、私にとっては、物心ついてからの、実の父との初めての対面でしたけど、あちらにとっては、どうだったんでしょうね…。あの男は、赤ちゃんだった私を、1度でも抱っこしたことがあるのか…、ほんの少しの間でも、母と私と3人で暮らしていた時期があったのか、そもそも、父と母は籍を入れた正式な夫婦だったのか、今でも全くわかりません…。何の感動もなく、感情の抑揚もなく、私、別のことばかり考えていたんです。

 その通帳、私が小さい頃から何年もコツコツ貯めてきたっていうのじゃなく、新規の通帳で、先週の日付で、三百万一括で振り込まれていました。本人のいないところで、他人名義の通帳なんて、作れるものなんですね。私、何も知りませんでした。もしかしたら、戸籍抄本とか、母が取って送っていたのかもしれません。てことは、母は、元夫?私の実父の連絡先だけは把握していたってことですよね…。それに、三百万ものお金を、新規の通帳に一括で振り込むことが出来るくらいだから、経済的には成功した、それなりの男だったんですよね。もしかしたら、母とは不倫で、母は不倫相手の子を身籠り、シングルマザーとして、私を育てていたのかもしれません。昔、父と母の間に何があったのか、どういう経緯で私が生まれたのか…。勿論全くわかりませんけど、ただ…。もしかしたら、母が私にずっと辛く当たっていたのは…、私に愛情が持てなかったのは…、父を憎んで…、恨んでいたからなのかもしれません。憎い男の、子どもだったから…。もしかしたら、私、小さい頃、顔が父親に似ていたのかもしれません。だから…、母が私を見てくれなかったのは、視線を合わせてくれなかったのは…、私の顔を見ると、憎い男を思い出しちゃうからだったのかもしれません。父に復讐する代わりに私を虐めていた。私は、実父の身代わりだったのかもしれません。わかりませんけどね。もう、今は、あんまり興味がないっていうか、どうでもいいっていうか…。」

愛梨は、ある種、諦念のような、どこか投げ遣りな表情を見せた。普段、店でこんな表情をすることは絶対にない。信治の知らない愛梨の顔。

「実父が、私の為に注文してくれたミルクティーが運ばれてきた時には、もう実父は席を立っていました。私は、1人で、ぼ~っと、窓の外を見ながら、何なんだろうって…。母は、私を家から追い出すにあたって、ある程度まとまったお金を、元夫というか、私の実の父に出させたってことなんですよね。実の娘なんだから、それくらいしてくれてもいいでしょってことだったんでしょうけど…。今まで全く音信不通だったくせに、養育費を一括で払ったつもりなの?それにしては少なくない?17年分の…。それとも最初で最後の娘孝行のつもり?1度くらい『お父さん!』て呼んでみたかった?いや全然!でも、このお金であの家を出られる。とにかくありがたい、このお金で短大か何かに進学して1人暮しをするんだ。これから、1人で生きていくんだ。そんなことを考えていました。

 

 家に戻って、まず困ったのは通帳の隠し場所でした。家には私個人の机さえない。母と共同で使っている衣装ケースも、着替えや、それこそ下着を収納してある引き出しだって、継父が漁るかもしれないでしょ?学校にもカギのかかるロッカーもないし、肌身離さず持っているしかないなって。ビニール袋に入れて、浴室にまで持ち込んでたんですよ?とにかくこんな大金、絶対に見つかってはいけない、絶対に取られてなるものかって必死だったんです。幸い、母は実父との面会について、何も聞いてきませんでしたし、継父はことの経緯さえ知らなかったと思います。学校に行ける間はなるべく学校で、必死に勉強しました。で、入試の手続きから何から全部1人でやって…。あ、そうそう!」

愛梨は、思い出したことに、先に自分で吹き出してしまう。

「私ね、本番の入試の前日、近くの公園に泊まったんですよ?凄いでしょ!ウソみたいでしょ?笑えますよね?公園から試験会場に向かった受験生なんて、多分、私だけですよね?しかも一応女の子!寒かったなぁ…、1月だったし。私、ちゃんとしたコートとかジャンパーなんて持ってなかったから、夜、8時くらいかな、コンビニで使い捨てカイロをいっぱい買って、その時、店員のお兄さんに、捨てちゃう段ボールって余ってないですか?て聞いたら、何?お引越し?はぁ、少しでいいんですけどって…。外の倉庫に連れてってくれました。畳まれている段ボールがたくさん積んであって、持ってっていいよって。不審に思われたかもしれませんけど、まさかこれから外で寝る為の準備だなんて、想像も出来なかったと思います…あのお兄さん…。」

そりゃ、こんな可愛い女の子にお願いされたら、ホイホイ言うこと聞いちゃうだろうけど、まさか公園で寝るなんて…。

「駅のゴミ箱から新聞紙を大量に拾ってきて、身体中に巻きつけて…。乾いた新聞紙を肌に直接巻くのがコツなんですよ?あ、新聞屋さんで教わりました、緊急の防寒の方法だって…。で、ウチから持ってきたタオルケットを被って寝ました。いや、寝たというより…。あまりにも寒くて、公園のトイレの個室に入って…。外にいるより多少まともだったのかなぁ、でも公園のトイレなんて、上も下もガラ空きですからね。それでも屋根と壁があっただけマシだったと思います。雨とか雪になってたら目も当てられなかったですけど、そこだけはセーフでした。トイレの個室のコンクリ―トの床に、貰ってきた段ボールを敷いて、下の隙間部分も段ボールで埋めて風よけにして、便器の前で丸くなって…。上から覗かれたら、凄い光景だったでしょうね。とにかく、取り敢えず、カギがかかるのがありがたかったです。でも寒いのと怖いのと緊張とで、多少うつらうつらはしましたけど、ほとんど眠らずに試験を受けました。」

そんな…、真冬の1月に、18歳の女の子が、独りで公園のトイレに泊まった?しかも入試の前夜に?信治は驚き…。愛梨は、懐かしそうに面白おかしく語っているが、そんな…、色んな意味で危ない、危険極まりない。よく無事で…。

「それでも何とか合格して、よく受かりましたよね?入学手続きや関係書類、入学金や授業料の振り込みも、全部1人でやりました。あの、実父からもらった三百万で。一応、保護者欄には、母の名前を書いて、印鑑も私が勝手に押したんですけど、母は黙認してくれていましたね。完全にノータッチでしたよ。私が何をしようが眼中にないというか、何の関心もなかったのかもしれませんけど…。」