愛梨が店に勤め始め、1年が経過した。愛梨は短大の2年生、19歳になっていた。この間、信治とプライベートで、店の外で会うようなことは、一度もなかったのだが…。信治は、愛梨を誘ってみたかった。でも口実が見つからない。普段いっぱい頑張っているから、たまにはご馳走してあげたいな、などとも考えてみたが、店長の立場を利用しているようで、憚られた。愛梨は気を遣って、本心では嫌でも断れないだろう。愛梨にそんな思いはさせたくなかった。それに…、それに、もし愛梨が喜んで誘いを受け容れてくれたら?そんな…、夢みたいなことが現実に起こるはずがない。こんなずっと年上のオジサンを…。職場での絡みはともかく、プライベートでなんて警戒されるに決まっている…。19歳と36歳、普通の恋愛関係になるには不自然な年齢差だ。そもそも自分を恋愛対象として見てくれるはずがない。それに、それに…、もしも、もしも、愛梨が、このマイクロペニスを見てしまったら…。信治は、愛梨のことがいくら好きでも、いや好きだからこそ、一歩前に進むことは怖くて出来ないのだ。

 それでも、今年は愛梨にとって卒業の学年。短大とは早いものだ。入学した次の年には卒業の学年。愛梨は、この1年で、いや、就職準備のために、もっと早く、この秋には店を去ってしまうのかもしれない。その日が、愛梨との別れの日が、刻々と近付いていることを信治は実感し、寂しい想いに駆られることが多くなった。辛い…、苦しい…。愛梨に会えなくなるなんて…、愛梨の顔を見られなくなるなんて…。もう一緒の空間で一緒の時間を過ごすこともなくなるなんて…。そんな悲しいことが…。でもその日は必ずやってくる。しかもそう遠くない将来。信治は、その日が確実に迫ってくることを実感し、苦しくて苦しくて堪らなくなる。愛梨と自分は、恋人同士でも何でもないのだが、店長とバイトとして、愛梨は信治に、ある程度だが、少しだが、心を開いてくれている。信治の錯覚、思い込みかもしれないが、勿論、あくまでも仕事上でのことだが、愛梨は自分を当てにしてくれていて、そして頼ってくれている。そう思えた。変な勘違いしないでよね!なんて言われそうだが…。

 

 2年目の連休も出ずっぱりだった愛梨。梅雨明けを待つある日のことだった。明日は定休日という火曜の夜、店が終わり、スタッフが帰った後、なぜか愛梨だけが残っていた。店のバックヤード、事務所の、デスクに信治、来客用の、そう、1年ちょい前の春、愛梨が面接の時に座ったソファに、愛梨は腰かけて、仕事終わりの、けだるい満足感に身を委ね、時折、思わずゴロンと横になってしまい、やばいやばい、という感じで、身を起こす。今日は三つ編みツインテール。可愛い…。ちょっと子どもっぽいけれど…。

「どうしたの?帰らないの?」

「う~ん…。迷惑ですか?」

「え~、いや、迷惑じゃないけどさ。」

「店長は、どうしてそんなに、私に親切にしてくれるんですか?」

「え~?だって、スタッフの中で最年少だし。愛梨ちゃん、いい子だし。」

愛梨は視線を外し、小首を傾けて床を見つめる。

「私、店長の思っているような女の子じゃないかもしれませんよ。」

「えぇ?何だって?」

信治は困惑する。なにか、愛梨に絡まれているような、変な感覚、愛梨ちゃん、もしかして、お客さんに無理矢理飲まされて、少し酔ってるの?

「もうそんなこと言って…。ほらほら、遅くなるよ。若い娘が…、ダメでしょ!」

「じゃぁ、店長、送ってください。心配だっていうなら…。」

信治は驚いた。愛梨は帰りたくないのか?甘えているのか?誘っている、いや、誘われるのを待っているのか?もうすぐお別れ。こんな風に話すことも、もうないかもしれない。愛梨を送っていくという口実。

「よし。じゃぁすぐ片付けるから、ちょっとコーヒーでも飲みに行く?」

「ホントですか?やった~!」

愛梨はコロッと明るい笑顔に戻る。元気にソファから飛び起き、ニコニコして本当に嬉しそうだ。さっきまでの疲れた顔、ちょっと暗い雰囲気だったのが、噓のようにはしゃいでる。

 

 居酒屋の閉店は深夜1時。信治は自家用車出勤で、勤務中にお酒を飲む習慣はない。安いおんぼろの軽自動車が少し恥ずかしかったが、愛梨を車に乗せ、近くのファミレスに向かう。信治は舞い上がるほど嬉しく、照れくさく、年甲斐もなくドキドキした。30代も後半に差し掛かった信治だが、自分の車の助手席に女性が座るのは勿論初めてだ。しかもそれが、大好きな大好きな愛してやまない愛梨なのだから…。

 深夜のファミレス。客はまばらだ。信治と愛梨の座るボックスの周りに、他の客は誰もいない。空席が目立つ。信治はコーヒーを愛梨はミルクティーを飲みながら、しばらくは雑談をしていた。スタッフのこと、お客さんのこと、仕事がらみの内容ばかりだった。唯一、愛梨の短大の様子では、

「そう言えばさぁ、愛梨ちゃん、聞いたことなかったけど。」

「はい?」

「愛梨ちゃん、てさ、何学部なの?何の勉強をしているの?」

「児童心理系です。就職の方向は、保育士さんとか、行政の児童相談所、あと児童養護施設とか、ですね。」

「児童養護施設?」

「はい、虐待とか育児放棄とか、新生児の遺棄とか…、そういう、その、恵まれない子供たちを、引き取って保護・養育する施設です。」

「へぇ~、そうなんだ。偉いねぇ…。子ども好きなんだね?」

「え~、まぁ…。実は子どもは、そんなに好きって程じゃないんですけどね。」

何となく気まずい空気が流れる。聞かれたくなかったのか、あまりこの話題には、これ以上は深入りしない方がよさそうだ。雑談の一つとして終わらせよう。

 愛梨は、若い娘らしくキャラキャラと明るく無邪気に笑っていた。信治は、目の前の愛梨が愛おしくて仕方がない。この子は、本当に目元が魅力的な子だ。顔立ちが整っているので、お澄まし顔、冷たい表情をすると、大人っぽく見えるのだが、笑うと途端に子どもっぽく可愛くなってしまう。鹿のような瞳が愛くるしい。去年の3月、短大に入学したての、いや、最初はまだ入学前だったのか…。高校を卒業したての18歳の愛梨は素朴な田舎娘だったが、短大生活を送り、この1年で随分垢抜けた。着るものも、学校帰りにそのままバイトに来る日もあるだろう。普通の女子大生っぽくなってはいる。まぁ勿論、デートの勝負服、という格好は見た事もないが…。でもきれいに、益々美人さんに、大人っぽくなったかな?それでも、可愛い愛梨、こんなに可愛い愛梨だが、19歳、9月が誕生日の愛梨は、もうすぐ二十歳だ。本当のところ、彼氏は?信治の妄想の中で、男に抱かれている愛梨。でも目の前の愛梨を見ていると…。そんな妄想は全てすっ飛んでしまう。そんな想像は全く結び付かないのだ。こうして一緒に雑談していると、年齢より幼く見える。彼氏と性行為をしているようには、とても見えない。想像が付かない。愛梨と、いるかどうかもわからない彼氏との性行為は、すべて信治の妄想か…。それほど、無邪気で子どもっぽい印象を受けた。無垢…。

 しばらく雑談を続けていた愛梨だが、少し、表情が曇りはじめ、口数も少なくなっていった。信治が話題を振っても曖昧な微笑みで返すだけになってしまう。そして、思い詰めた表情で俯き、黙ってしまった。

「どうしたの?さすがにもう眠くなった?」

首を横に振る愛梨。

「店長さん、少し、話してもいいですか?」

「ん?いいよ?」

「あのね…、店長、私ね…、独りぼっちなんですよ…。」

「え?」

「ごめんなさい…、こんな話…。店長さん迷惑ですよね。」

「どうしたの?愛梨ちゃん、何か悩みごと?」

「いえ、悩みごとというわけでは…。すいません。」

「いいよ、愛梨ちゃん、何か話したかったら、何でも話して。聞いてあげることしか出来ないけど。愛梨ちゃんが、こんな俺でもいいなら。」

「そんな…、店長って、私が人生で出会った中で、一番優しい人ですよ。ホントに、お世辞じゃなくて…。だから、店長さんなら聞いてくれるかなってちょっと思って…。誰にも話したことないんです。短大の友達も何も知りません。ドン引きされるのはわかってますし…。いえ、そもそもこんな話、出来るほど親しくないって言うか…。私の方が話す気はないっていうか…。人様に聞かせられるような話じゃないですし…。」

愛梨は俯いたまま、何かにじっと耐えているかのように微かに震え、テーブルの上、両手をギュッと握りしめている。信治は、急かさず何も言わずに待った。この子の力になりたい。話を聞いてあげたい。愛梨の、普段とは違う尋常でない雰囲気に、この時、信治には性的な下心など微塵もなかった。

「すいません、店長さん、ホントは誰かに話したかったんです。誰かに聞いてほしかったんです。店長さんになら、話したい…。本当に聞いてくれます?」

「勿論だよ。嬉しいよ。愛梨ちゃんが、当てにしてくれて…。」

くすりと照れ笑いをする愛梨。でもやはり、いつもの無邪気な笑顔ではない。

「ありがとうございます。」

 

 愛梨は、ぽつりぽつりと話し始める。

「店長、今の私ってどんな風に見えますか?私ってどんな子?」

「え~と、元気な明るい子!働き者で優しくて、いっぱい頑張る子!」

愛梨は照れて目を伏せてしまう。恥ずかしそうに信治に視線を向けると

「もう…、そんなに褒めて…、でも…」

一瞬嬉しそうに、でも少し自嘲するように笑って、また目を伏せる。

「よかった…。」

俯いたまま呟く愛梨。顔を上げ、ちょっと照れ臭さそうに信治を見つめる。

「よかった!店長にそう言ってもらえて…。嬉しいです。ありがとうございます。店長にはそう見えてるんですね。よかった。私、頑張ってたんです。そう言ってもらえるように、頑張ってたんです、今も、頑張ってるんです。本当の私は、高校の頃までの私は、全然そんな子じゃなかったんです。生まれ変わろうって決めて…。よかった…、ホント嬉しいです。」

愛梨はそう言ってまた目を伏せるが、再び顔を上げて信治を見つめる。きれいな涼しげな目元が信治には眩しい。切れ長の目、鹿のような瞳。こんな風にまっすぐ見つめられたら、ドキドキしてしまう。

「あのね、店長さん、私、元々母子家庭の子だったんですよ。物心ついた頃には、母と2人で暮らしていました。狭い、ボロアパート…、というか、長屋ですね。四畳半一間で、トイレと炊事場は共同でした。お風呂もなくて、夏の間は、外の流し場で、私、裸んぼになって頭から顔から身体から、流し場に置いてある普通の固形せっけんで全身を洗っていました。母がどうだったのかは記憶にないんですけど…。冬になると、時々、銭湯に連れて行ってもらえて…。あれは嬉しかったですね。母と2人、ちょっと贅沢感があって…。当時は子供でわからないことだらけでしたけど、今、大人になって色々、あ~、あれはそういうことだったんだなって、少しずつわかるようになって…。多分、ウチは貧困家庭で、生活保護を受けていたんだと思います。市の職員らしき人が時々家に来ていましたから。母は申し訳程度にスーパーのレジ打ちをしていましたけど、お金を稼ぐのは、もっぱら、あの…その…、売春だったんです…。すいません、こんな話…。」

「いや、大丈夫だよ、愛梨ちゃん、ゆっくりね。」

信治は正直驚いた。愛梨の幼少時代、愛梨の母親…。そんな…、売春?

「はい、すいません…。母は知らない男の人と一緒に帰ってきて、そうすると、私は外に出されて、1人でポツンと待っているんです。公園とかに行くと人目に付くからって、遠くには行くなって、長屋のすぐ脇の花壇の処にいつもいました。終わると、男の人が帰っていき、私は中に入れてもらえる。そんな毎日の繰り返しだったんです。それでも、母は機嫌がいい日には少し優しくしてくれましたし、その頃、私、幼少期はまだ幸せだったのかもしれません。機嫌が悪い日は、お酒を飲んで暴れて泣いて喚いて…、散々、怒鳴られたり、殴られたり蹴られたりもしましたけど…。すいません、店長さん、こんな話…。」

信治は真剣に聞いている。こんなに明るく元気に、無邪気に笑う愛梨に、そんな過去があったなんて、驚き、そして、時々見せる暗い陰の理由がわかったような気がした。そんな幼少期を過ごしてきたなんて…。今の愛梨からは想像もつかない。無邪気,無垢、という印象は間違いなのか?貧困と虐待?ただ、同時に、理路整然と順序立ててしっかり話す、言葉の選び方も今どきの若い子にしては大人びている。あぁ、この子は頭のいい子だ、とも感じた。愛梨の話を聞いてあげよう、いや、聞きたい。何か、力になってあげられることがあるなら、何でもしてあげたい、信治は心底そう思った。