ついに今年もKONAMI Arcade Championship 2011


が開催されましたヘ(゚∀゚*)ノヤタネ!!        $リア・バカテス!Project



今回LISTAはREFLEC BEATに挑もうと試みているヽ(゚◇゚ )ノ


音氏はDruMani8で止まっているのでXG2参加はNGらしい(ノ_-。)


890REIMU氏はというと、


この一ヶ月で恐ろしく鍛えている模様((((((ノ゚⊿゚)ノ


無論リフビー大御所の方々が来るということで


我が一行は陰に隠れる羽目になるが


"全力で実家に籠もるつもりだ!!Σ(・ω・ノ)ノ!
     ↑PROF参照

ということで、ライバル共、


覚悟されても何も感じんよと言われとも


覚悟しろいのスレはここですかOo。。( ̄¬ ̄*)






Part1
英米軍の飛行機の3つの波がドイツのドレスデンを爆撃したその日は、1945年2月13日、春の気配が漂っていると言ってもよい日だった。攻撃の後には、結果として一連の猛烈な火事が起きた。彼らは街の75パーセントを破壊し、35000人以上が殺された。
 聖母教会は当初その火事を乗り切ったと思われた。生き残った人々は2月15日の朝、ドームが未だ空にそびえ立っている光景を見て元気づけられたが、結局崩れてがれきになり、建造後200年経って街のスカイラインから消えるのをただ見るという結果になった。
 なぜこれは起こったのか?そんな質問が多くの人から出された。それは第二次世界大戦で最も論争を呼んだ空爆の1つであった。その攻撃に参加したパイロットの1人でさえ、「私は何度も神に自分を許してくれるよう頼んだ」と言っているのだ。
 歴史家の中には、その攻撃は戦争を終わらせるのに必要ではなかったと言う人もいる。一方で、間違いなくそれは必要だったと言う人もいる。

Part2
 ドレスデンの市当局は冷戦中、聖母教会を戦争に対する抗議のシンボルとして何年もの間荒廃させたままにした。そのため、1990年に再びドイツが1つの国になってようやく、教会を再建する計画が真面目に議論されたのである。再建は無駄であると主張する人々からの、その計画への反対意見もあった。しかし結局、教会を再建しようとする意志は、それを破壊した火よりも強く燃えたのである。
 14326トンのドームをつけて教会を再建する計画は1991年に始まったが、破片の全ピースを慎重に分析する作業には1年以上かかった。実際の再建作業は、元の石材を置くことで1994年5月に始まったのだった。
 その計画を実行した会社の主導建築家であるウーリッヒ=R=ショーエンフェルドは、「たくさんのピースがなくなった巨大なジグソーパズルを組み立てているようだった」と言った。「ある時は仕事が楽しく出来て、またある時は苦しみを伴って仕事をした。毎日一方の目で笑い、もう一方の目では泣いていた。」

Part3 
 ドレスデンは電車でベルリンから南に約2時間、プラハから北に約2時間のところにある。「エルベのフィレンツェ」と呼ばれ、その街は重要な文化の中心地と見なされている。
 元の教会は、ドレスデンの人々から寄付されたお金で1726年から1743年の間に建てられた。それはプロテスタントの教会建築の最も重要な実例であったと言われている。
 再建チームのリーダーであるカールハインツ=シュエッツホールドは「我々はがれき、建物の壊れた破片から始めた」と言った。「我々は全ての破片がどこに当てはまるのかを確実に理解するために、それらを研究しなければならなかった。」
 装飾された建物の石材から壁、柱、ドームの破片に至るまで、全部で9286個の石ががれきから回収された。外壁からの7110個の石のうち、たったの3539個だけしか、教会の再建に再使用するに適していると判断されなかった。その他は火であまりにひどく傷んでいたのだ。
 「どの石も慎重に番号を付けられて記載された」とショーエンフェルドは言った。「我々は行方不明の石や傷んだ石の場所に使う新しい石を切り出すため、それらがどこのものかを理解しなければならなかったのだ。」

Part4
 その計画の総費用は2億1700万ドルに達した。世界中から来た人々がその再建計画に寄付したのである。攻撃を指揮したイギリスは、再建のために1億2000万ドル以上を寄付した。ドレスデンに関連するアメリカ人の組織であるフレンズ・オブ・ドレスデンは何百万ドルもの寄付金を集めた。戦争は人々を引き離したが、この計画は彼らを再び結びつけるのを助けたのだ。
 その計画のリーダーは再建作業を導くための教会の絵を、不完全な状態の3枚しか持っていなかった。彼らは何千枚もの古い写真、教会当局に保管されていた記録、そして人々の記憶に頼らざるを得なかったのだ。「我々は正面玄関を当時あったように再建したかったが、誰もその彫刻を十分にはっきりと描写出来なかった」とショーエンフェルドは言った。「だから我々は、カップルが結婚式の後に教会の玄関の外でよく写真を撮ることから、教会で結婚式を挙げた人に、自分たちや祖父母のその時の写真を送ってくれるよう頼んだ。」
 全ての写真と石の寸法がコンピューターに入力された。コンピューターは、例えば残った部品から推測されるドームの欠落部分を明らかにするような、10000枚以上の詳細なイメージを次々に作り出したのである。コンピューターがなければ、再建は可能でなかっただろう。

Part5
 2005年10月31日月曜日の午前10時、聖母教会の鐘が街中に鳴り響いた。その式典はドイツのテレビで生放送で伝えられた。教会の外には巨大スクリーンでその儀式を見るために、およそ60000人が押し寄せた。彼らの多くは目に涙を浮かべた。
 新しい建物の3分の1以上は、がれきから回収された古く浅黒い石で出来ている。残りは新しい明るい色の石で作り上げられた。それらは合わせて過去と現在のモザイク模様を作り出しており、以後長い間、元の教会が戦争で破壊されたことを思い出させるものとなるだろう。
 聖母教会の再建によってドレスデンには最も有名な歴史的建造物が戻り、その歴史を踏まえ、教会はイギリスとドイツの和解の象徴となった。教会のドームの頂上にある金の十字架は、1945年にドレスデンを爆撃したイギリス人パイロットのうちの1人の息子によって作られた。
 教会の再建は信じられないほどの奇跡である。それは、人々が暗い過去に生きるのをやめ、努力すれば共に取り組むことが出来ることを示す、愛の活動なのである。新しい明るい色の石が年を経て暗い色になるまでには、世界が住むのにより良い場所になっていることを私達は願う。
Part1
 自転車の歴史は1817年のドイツまで遡る。バロン・フォン・ドライスは2つの車輪を備えた木製の歩行装置を発明した。それは、地面に足を押しつけることで滑って歩くようにして前に進んだ。問題は、それが有用な道具になり得たかどうかということであった。およそ50年後の1865年、新たに改良された型が現れた。それは前輪に直結されたペダルを備えていたのである。
 1870年には、完全に金属製である初の乗り物が登場した。それは既存の型よりも乗り心地をより滑らかにする、大きな前輪を備えていた。前輪が大きければ大きいほど速く進めると人々が理解したため、前輪はどんどん大きくなっていった。これが自転車、あるいは「two wheels」と呼ばれることになる最初の乗り物である。
 1885年には、同じサイズの車輪2つと違うサイズの歯車2つを備えた自転車が作られた。この新しいタイプの自転車で、乗り手は大きな前輪のついた自転車と同じくらい速く進むことが出来た。この便利な乗り物が、初めての現代的な自転車であった。それは従来のものよりもより安全に乗ることが出来たのだ。

Part2
 自転車は既存の技術で発明されたが、代わりにそれは自動車や航空機のような新しい分野の発展に役立った。自転車製品に使われた技術、つまり、空気式タイヤ、転がり軸受、大量生産、は自動車生産に重要であった。ドイツのゴットリーブ・ダイムラーは、自転車を動かすのにガソリンを用いた最初の人物であった。したがって、自転車の修理店が最初のガソリンスタンドになったのも当然なのである。
 自転車の技術は、初期の航空機生産において重要な役割を果たした。有名なライト兄弟は、オハイオ州のデイトンで小さな自転車の修理店を営んでいた。彼らは1892年に自転車の修理を始め、1896年には自分たちオリジナルの自転車を作った。そして1903年、彼らは普通の道具と部品を使ってライト・フライヤーを組み立てた。プロペラを回転させるためにエンジンの動力をシフトさせる、スプロケットとチェーン伝導部が最たる例だ。他の例としては、元々自転車のフレームとして使われていた部品である、プロペラの支柱がある。

Part3
 自転車は19世紀後半になって世界を変えた。女性でも乗れる自転車の登場が彼女たちを解放した、と信じている人もいる。それ以前は、女性は公園を乗って回るくらいにしか適さない、重い大人用の三輪車に乗らざるを得なかった。当時の重いスカートを履いた女性にとって、大きな車輪のついた自転車に乗るのは難しかったのだ。今や彼女らはこの便利な輸送装置に乗ることが出来て、なお長いスカートで脚を覆ったままに出来るのだ。
 自転車のおかげで、より簡単に動き回れるように女性のファッションは簡素化した。1896年、スーザン・B・アンソニーは「自転車は女性の解放において、世界の何よりも多くの役割を果たした」と言った。
 自転車は人々が配偶者を選ぶ方法にも多大な影響を及ぼした。自転車の発明以前は、ほとんどの人が自分(の家)から10マイル(約16km)以内に住む人と結婚していた。自転車の発明により、人々は100マイル(約160km)以上も離れた配偶者に会うことが可能となったのだ。

Part4
 自転車は、発明以来200年未満の間で最もエネルギー効率の良い交通手段となった。費やされるエネルギーと及ぶ範囲の観点からすると、自転車で移動することは、馬や車より、そして徒歩ですらよりもエネルギー効率がいいのである。もちろん、自転車の燃料は乗り手の食べる食べ物だ。自転車の乗り手は、1本のバナナがおよそ含む100キロカロリーで5kmの距離を行くことが出来る。100キロカロリーに相当するガソリンでは、軽自動車は100mしか走れないのである。
 人々は皆、環境をきれいに保つために車の利用を減らすことを真剣に考えるべきである。例えば、車は大気汚染の主要因であるが、自転車はほとんど何も生み出さない。車は騒音公害も引き起こすが、自転車はこれまたほとんど何の騒音も出さない。自転車はいくつかの環境問題に対する答えとなる可能性があるのだ。
 しかし、話はそこで終わらない。車の利用から自転車の利用に移行することで、あなたの健康も間違いなく向上するだろう。

Part5
 自転車は、車を運転する時には得られないような解放感を与えてくれる。自転車に乗ることで気分を良くすることが出来るのだ。それは、忙しい一日の終わりにストレスを取り除くのを助けてくれる。自転車に乗って通勤すれば、健康を維持し、気分を爽やかにするのに役立つことになるだろう。
 自転車に乗ることはそれほど心臓に負担をかけないので、誰にとっても素晴らしい運動である。それは、ほとんどの有酸素運動と同じ心拍数で心臓を拍動させることになる。
 自転車に乗ることは、あなたを強くし、調和レベルを向上させることになるだろう。これは、危険をはらんだ転倒や落下の後、ケガをする可能性が低くなるであろうことを意味している。また、運動した後に痛みを感じる可能性も低くなるだろう。
 さてこれで、自転車には興味深い過去とわくわくさせるような未来があることが分かった。健康を維持し、良い気分を保ち、エネルギーを節約し、私たちの環境を保護するのを助けるために、自転車に乗ってみてはどうだろうか?
Part1
 かわいいので、人々はアライグマが好きだ。日本にいる人はアライグマをペットとして飼うことが好きだが、それは違法になってしまった。2005年6月1日、外来種の輸入に関する新しい規制が始まった。これらの規制の目的は、生物多様性や人々、そして日本の農業を、自然にはここに住んでいない種(しゅ)から守ることにある。アライグマはかわいいが、日本では侵略的外来種なのである。
 侵略的外来種は、元々の生息地では普通は問題を起こさない。元々の生息地の外で、彼らは問題を起こしうるのだ。例えば、クズは日本では非常に一般的で滅多に問題にならないが、アメリカではそれが侵略的外来種となってしまったのである。クズは、手に負えないままにアメリカ南部一帯に増えていったのだ。
 アライグマは日本ではどんな問題を起こすのだろうか?アライグマは多くの種類の食べ物を食べる。北海道では、「侵略者」のアライグマは、ニホンザリガニやエゾサンショウウオといった希少在来種を食べるのが好きだ。彼らは鳥の生息地にも影響を及ぼし、鳥が巣を作りづらくなってしまった。アライグマによる別の種類の動物への悪影響も報告されている。

Part2
 新しい規制の対象となる他の2つの侵略的外来種が、カミツキガメとブラックバスである。カミツキガメはペットとして日本に持ち込まれ、ブラックバスは釣りのために湖に放たれた。
 カミツキガメはペットとして広く人気がある。このカメの口は非常に強力で危険だ。彼らは何でも食べるのだ。カミツキガメが全ての植物や昆虫、魚やその他の動物を食べてしまうことにより、陸水生態系が傷つくかもしれないという懸念がある。
 ブラックバスは、スポーツで釣りをしに行くのが好きな人の間では非常に人気がある。しかし、ブラックバスは池や湖の生態系に大きな影響を及ぼしもするのだ。例えば、宮城県鹿島台のある池をブラックバスが侵略して以来、日本在来の希少種の魚を見つけるのが不可能になってしまった。科学者らは、ブラックバスのトンボに対する悪影響についても懸念している。
 ブラックバスを侵略的外来種のリストに載せるという決定は容易なことではなく、白熱した議論がたくさん交わされた。それは人気のある魚であり、スポーツフィッシング業界の人が損をしてしまうかもしれないのだ。

Part3
 日本に持ち込まれた侵略的外来種の中には、人々の仕事を助けるという目的で持ち込まれたものもある。ジャワマングースは沖縄に持ち込まれた。問題はそれがそこで食べ始めた物である。ハブを殺して食べると考えられていたのだが、代わりに他の種を食べたのだ。
 実は、マングースはほとんどハブを食べない。ハブは夜に活発になるのに対し、マングースは日中に活発になるのだ。ハブを殺すために沖縄にジャワマングースを放ったのは間違いだった!
 別の例がセイヨウマルハナバチである。従業員数と、温室でトマトを育てるための化学薬品の使用を、ハチを使うことで減らせると農家の人は考えたのだ。しかし、セイヨウマルハナバチは他のハチよりも相当強いので、巣を作ってハチミツを集めるため、すぐに他のハチの生息地を侵略してしまうことが今では知られている。既にセイヨウマルハナバチが生態系の一部となっている中東諸国では、在来のハチが著しく減少してしまった。日本では温室の外でセイヨウマルハナバチが見かけられることもあり、科学者らはそれが増加して将来的に問題になるのではないかと懸念している。

Part4
 侵入生物種が新しい環境に持ち込まれると、それは必然的に、その生態系に属する他の種と張り合い始めることになる。外来種の方が強ければ、在来種は生き残れない。生物侵入と呼ばれるこのプロセスは、世界中の在来種が希少になるか絶滅するかの原因となるのだ。
 生物多様性の重要性については理解しなくてはならない。生物多様性とは、動物や植物、昆虫、そして目に見えないとても小さな動植物までもの多様性なのである。まだ研究していない小さな植物や動物の中にどんな宝物が見つかるかも分からないので、生物多様性は守られる必要があるのだ。ガンの良薬は森の中にある木や茂みの中に隠れているかもしれない、日本にだってあり得る、と言われることもある。
 日本には他のどこにも見つからない動植物がいるため、ある環境NGOは日本を生物多様性の「ホットスポット」、地球上の宝物庫と呼んでいる。こうなると、将来の世代のために自然の宝物(天然記念物)を守ることは私たちの責任なのである。
Part1
世の中は、そのほとんどが二度と起こらないような奇妙な体験に満ちている。次に紹介する2つの物語は必ずや、「事実は小説よりも奇なり」である素晴らしい世界へと、あなたを導いてくれることだろう。
 オズの魔法使いは史上最も有名な映画のひとつだ。しかし、その本がどれだけ大ヒットだったのかを人々は忘れてしまっている。著者のフランク・ボームは、その本を書いた当時、訪問販売員をしていた。本が出版されると、それは瞬時のヒットとなった。ボームは仕事を辞め、新居に引っ越し、残りの人生をかけて(作品を)執筆した。
 映画は、世に出た時に映画館で人気になっただけでなく、数年間はテレビでも放送された。アメリカ中の子供はドロシーやかかし、ブリキの木こりやライオンを誰が演じていたのか覚えている。魔法使いについてはどうか?奇妙なのは、この登場人物が人々の心の中で目立たなかったことだ。魔法使い役を演じたフランク・モーガンは他の登場人物も演じているので、それは驚くべきことである。モーガンは映画の制作から10年後に死去した。しかし、多くの新聞社は彼の死亡記事欄にその問題を持ち出すのを忘れていた。

Part2
 モーガンは役のひとつで、衣装に擦り切れたコートが必要とされたマーベル教授を演じた。この役に合うコートを見つけるため、映画のスタッフが地域中に送り込まれた。彼らは多くのコートを持って戻ってきた。
 監督とモーガンは適したコートを選ぶために会った。彼らはそれを見つけた。それは古いが威厳があるように見えた。その上、それはモーガンに完璧にフィットしたのだ。彼らはそれが完璧なコートだと判断した。
 映画の撮影中はとても暑かった。あるシーンを終えた時、モーガンはあまりに暑くなってコートを脱いだ。彼は空気を通すためにコートを裏返し、仕立屋と元の持ち主の名前を見つけた。
 彼は自分の目を信じられなかった!
 モーガンはシカゴの仕立屋に電報を送った。仕立屋は、自分がそのコートを作ったとはっきり言った。それから、モーガンとスタッフは元の持ち主の妻に会いに行った。その老婆はコートを見て微笑み、「はい、それは今は亡き夫のコートです。」と簡潔に言った。
 そのコートの何がそんなに特別だったのだろうか?それはその元の持ち主の名前である。コートの内側に書かれていたのは、「L・フランク・バーム」であった。そのコートはオズの魔法使いの著者のものだったのだ。

Part3
 物語はいかがだったか。さて次に紹介するのは別の、違ったタイプの奇妙だが本当の物語だ。
 盗作はひどい罪である。それはつまり他の作家の作品をそっくり写すことだ。もしこれを学校ですれば、その科目では落第するだろう。もちろん、本や雑誌にある資料をそっくり写したり売ったりしてはならない。罰金を科されたり、刑務所に送られたりすることだってある。
 ではモーガン・ロバートソンについてはどうなのか?彼は有名は作家ではなかったが、彼のことをひどい盗作家だと呼ぶ人もいる。彼のフィクションの物語である「フューティリティ」は、1000人以上の人が死んでしまう惨事についてのものだった。なぜロバートソンを盗作で非難する人がいるのだろうか?
 まず、それは大西洋での物語だ。それはタイタンという大きな船についてのものだった。実際にはそれは800フィート(約244メートル)で、今までに建造された中で最大の遠洋定期船であり、防水の客室を多く備えたものであった。タイタンは沈まないのだ!
 次に、作中で船は、4月にイギリスのサウサンプトンから2000人以上を乗せて出航している。彼らの多くは金持ちだった。次に何が起こったかは分かるだろう。タイタンは時速46kmの速度で航海中に、氷山にぶつかったのだ。

Part4
 氷の塊にぶつかってタイタンは沈んだだけでなく、タイタンには乗客用の救命ボートがあまりにも少なかった。多くの人が冷たい水の中で溺れ、他の多くの人はタイタンと共に沈んでいった。
 ほぼ全ての点において、タイタンは、――その名前、大きさ、乗客数、スピード、事故が――、タイタニックのそれと似ていたのだ。なぜ出版社は「フューティリティ」を出版したのだろうか?モーガン・ロバートソンはタイタニックの物語を盗作して問題を起こさなかったのだろうか?
 1912年4月14日に氷山にぶつかり、数時間後の1912年4月15日午前2時20分に沈んだタイタニックにまつわる悲しい話に似た物語を執筆したことに関して、モーガン・ロバートソンは弁解の余地がなさそうである。彼は被害者に申し訳ないと思わなかったのだろうか?
 1つ小さな点が異なっていた。モーガン・ロバートソンは1898年にその本を執筆し、出版した。これは、ウィリアム・ピリーがかつてタイタニックの建造を夢見た時より何年も前である。「フューティリティ」は現実の事故のコピーではなかったのだ。それは予言だったのである。