Part1
それは文字通り、不意にやってきた。それはハロウィンの金曜日の朝だった。
 兆候は一切無かった。水は透き通っていて穏やかだったのだ。私はとてもリラックスしていた。波は小さく、右手はボードの先端に、左手は冷たい水の中に入れて、私は波と一緒に進んでいった。私は「打ち寄せる波がすぐ強くなればいいのに」と考えていたのを覚えているが、突然灰色の閃光があったのはまさにその時だった。
 それは数秒のうちに終わった。私は、周囲の水が自分の血で明るい赤に染まっていくのを見たのを覚えている。そして私は、自分の腕がほとんど肩のところまで消えているのを見た。
 友人のアラナが言うには、私の反応は非常に無味乾燥とした、抑制されたものだった。私はただ、幾分大きな、しかしうろたえていない声で、「たった今サメに襲われたわ」とだけ言い、片腕だけで漕ぎ去り始めたのだった。岸が遠いことは知っていたが、ひとつの考えがずっと頭の中で繰り返されていた。「浜辺に着くんだ。浜辺に着くんだ。」

Part2
 私が病院に連れて行かれた時、医師のロビンスキー先生は、私が「キュウリと同じくらい落ち着いていた」と言った。みんなが私を助けてくれる病院に自分がいることを知って、私はとても安心したのを覚えている。ここまで辿り着いたのだ。私はこれを乗り切るつもりでいた。血をほぼ半分失ったため、到着した時私は起きていたがやや眠かった。
 ロビンスキー先生は、「君は腕を失ったよ、ベサニー。こうなると焦点は、君の命を救うことにある。」と静かに言った。
 彼によると、サメの口は非常に汚いため、サメによるかみ傷は感染症の危険性が高いようだ。そのため、彼は傷を綺麗にし、感染がないことを確かめるために数日間傷を開いたままにしておく必要があったのだ。その後、私は傷を閉じるためにもう一度手術を受けることになっていた。
 手術を終えて私が意識を取り戻した時、私は「全てが上手くいく」というような笑みを顔に浮かべていた、と父は言った。私がまず知りたかったことは、「いつまたサーフィン出来るか?」ということだったのだ。

Part3
 一番好きなことをもう二度と出来なくなるかも知れない、というのを想像して欲しい。どう感じる?悲しい?怒る?ショックを受ける?その答えは、私にとってはこれら全てだったのだ。
 病院で私は、かつて腕があったところを眺めては、「これからどうすればいいの?」と考えたものだった。しばらくの間、私はこれからもまたサーフィンするようになるとは思っていなかった。「ほら、これで満足でしょう。つまり、サーフィンが全てじゃないでしょ?」と私は自分に言い聞かせようとしたのだ。もし私が直接サーフィンに関われないならば、それがそのスポーツに近いところにいられる唯一の方法だろうと思ったので、私は父にサーフィンフォトグラファー(写真家)になりたいと言った。
 しかし退院前には、――実際には1週間の入院の2日目にはもう――、 またサーフィン出来る可能性について私は違うことを話していた。家族全員が私を後押しし、出来る限り励まそうとしてくれたのだ。
 いくらか縫合線があり、医者は完治するまでは水を避けるようにと私に言った。私は自分自身に期限を設けた。感謝祭だ。

Part4
 感謝祭の前日、私は浜辺に下りてただ海を眺めようと決めた…のだが、もちろんそれだけで我慢出来るわけがなかった。水、風…全てがあまりに美しかったのだ。
 最初2,3回試したのは上手くいかなかった。起き上がれなかったのである。私と一緒に水の中にいた父は、「ベサニー、もう1回やってみろ。今度は上手くいくぞ!」と叫び続けていた。だから私は何度も挑戦した。
 すぐ後に、それは起きた。波が進んできて、私がそれを捕らえ、押し上げるために手をボードの上に置き、そして私は立っていた。
 立ち上がり、(サメの)襲撃後初めて波に乗って感じた喜びは、私には言葉で言い表すのが難しい。私がしてほしくないのは、みんなが私を哀れむことだ。「もし人生がレモンを手渡してきたなら、レモネードを作りなさい」と母はいつも言っている。これは素晴らしい人生観だ。
 私はよく、サメの事件全てがただの悪夢だったらいいのにと願う。しかしそうではなかった。それは私の今の現実であり、それを受け入れることを私は学んだ。次へ進んだのだ!
Part1
遙か昔、何かがただおいしそうに見えるからといってそれを食べてはならないことを、人々は経験から学んだ。彼らは食べ物を判断するために感覚の全て、特に嗅覚を使ったはずだ。人々にとって、良い嗅覚を持つことは生き残るために重要であったに違いない。
 人間は、火の使い方を発見してから香りに興味を持つようになった。彼らは恐らく、ある特別な種類の植物を偶然燃やし、それが香りを放つことに気付いたのだろう。植物を燃やしてその良い匂いの煙を嗅ぐことは、古代より宗教的儀式の一部になっている。英語の単語「perfume(香水)」は実際、ラテン語で「煙を通って」を意味する「per fumum」から来ているのだ。植物を燃やすことで発生する匂いは、人間の体を清浄にし、心を澄んだものにすると考えられたのである。
 紀元前1500年頃、古代エジプト人は香水や香油を薬として肌につけることを学んだ。研究者たちは、彼らはミイラを作るのに香辛料も使っていたと言う。実際、1922年にはツタンカーメンの墓で香辛料の壺が1つ見つかっているのだ。一般的には香水は元々人を惹き付けるために使われたと考えられているが、恐らくそれは最初、薬として使われたのだろう。

Part2   
嗅覚は動物にとって非常に重要である。ハブはにおいでネズミを探す。逆もまた真である。ネズミはハブや他の危険な動物をにおいで嗅ぎつけるのである。サメは獲物の血のにおいを何キロメートルも離れたところから嗅ぐことで、それを見つけることが出来る。一方で、ある魚が捕まると、その群れにいる他の魚は死んだ魚のにおいで危険を察知することが出来る。
 においには他の効用もある。オスの蛾は、10kmまで離れたところにいるメスの蛾の群れを嗅ぎつけることが出来る。鮭はたとえ数千kmも離れた海を泳いだ後でも、似たにおいを嗅ぎ分けることで、生まれた川に戻ってくることが出来るのである。ネコやイヌは、自分のにおいで自身の住む空間に印をつける。これは「臭痕(マーキング)」と呼ばれる。
 人間はどうだろうか?風邪を引いて嗅覚を失えば、私たちはそれがどれほど重要か分かる。古代の日本人はそれほど頻繁には風呂に入らなかったので、高貴な人々は最愛の人に会う時には匂いつきの着物を着たのだ。その美しさで有名なクレオパトラは、美しいからではなく、自室の床にある数千のバラの花の香りをまとっていたから、ずっと愛されてきたのかも知れない。あなたはこれが「臭痕」の一種だと思うだろうか?

Part3
 香水はどこから来るのだろうか?ほとんどの天然香料は植物や果物、種などから来ている。動物から作られる香水はわずかなので非常に高価だ。麝香(じゃこう)とよばれる香水はオスのジャコウ鹿から来ている。香水を作るための天然成分の数はおよそ500だが、人工的な成分の数はおよそ5000である。
 香水の研究者たちは常に鼻を健康に保っておかなくてはならない。嗅覚をベストに保っておくためにジョギングに行く人もいる。彼らは無臭の石けんやヘアケア用品を使うのである。休日の前の1日だけは、彼らは辛い食べ物を食べようかとさえ考えることができる。喫煙はしない。人混みを避けるために仕事には早く出かける。このような生活を送ることのみによって、たくさんの違った種類の香水をテストするためのよい状態のままでいられるのである。
 今や香り付きアクセサリー、服、本、そして設定した時間に香水を放出する時計など、芳香性の商品が数多く売られている。会社やスポーツクラブの中には、BGMだけでなくBGP(Back ground Perfume)を使うところもあり、これは香水がどれほど私たちの気分に影響するかを示している。

Part4
   アロマテラピーは今非常に人気がある。あなたにエネルギーを与える香水もあれば、リラックスするのを助ける香水もある。例えば、レモンの香りを嗅ぐことは、より熱心に仕事をするのを促進することが出来る。長い散歩の後、ペパーミントのバスオイルを加えた熱い風呂に入ると、あなたは自分が生まれ変わったように感じるだろう。心と体の両方をさわやかに出来るのだ。アロマテラピーは体調が優れない人を治すのに必ずしも使われるわけではない。それは時々私たちの体調をキープするために使われるのである。
 この香りに関するレッスンをまとめる、あるおもしろい物語がある。ある貧しい男が、うなぎ屋の前にボール1杯のご飯を持ってきた。網焼きのうなぎから来る煙を嗅ぎながら、彼はボール1杯のご飯を食べたのだ。そのとき、店主が伝票を持って急いで飛び出してきた。その男は「でも私はあなたから何も買っていない」と言った。すると店主は「あぁ、いや君は買ったよ。ウチのうなぎを嗅ぐことで、そのうちの1匹を食べたかのように感じたじゃないか。だから私は君に匂いを売ったと見なすよ。君は私に800文の支払い義務がある」と言った。すると男は、ゆっくりと袋一杯のコインを取り出してそれを店主の耳元で鳴らし、「このコインの音を聞くことで支払われたものと見なしてはどうだい?」と言った。
Part1

昼食にはどんなファーストフードを食べたい?ハンバーガー?フライドチキン?きっとインスタントラーメンを思いついた人もいるだろう。
 インスタントラーメンは日本で作られ、世界中の50以上の国と地域(多くはアジア)に輸出されている。あなたはこの世界的に有名なファーストフードが日本で生まれた歴史を知っているだろうか。第二次世界大戦後の早い時期に、安藤百福はラーメン屋台の前に人々が長い列を成しているのを見た。彼らは長い間列で待ちながら立っていなければならなかった。安藤は調理が簡単で且つ長持ちするようなラーメンを作りたいと思った。彼は妻が夕食に天ぷらを作るのを見て、たっぷりの油で揚げるラーメンのアイディアをふと思いついた。試行錯誤し、彼はインスタントラーメンを作ることに成功した。これは味付けされ、たっぷりの油で揚げられ、乾燥させられたラーメン製品であった。
 1958年、世界初のインスタントラーメンが日本で発売された。どんぶりに入れて湯をかけ、たった数分で調理できることから、それは「魔法のラーメン」と呼ばれてすぐにヒットした。

Part2 

 1970年代になると、発泡スチロールのカップに詰められたラーメンがインスタントラーメン製品に仲間入りした。それまで、発泡スチロールは主に魚を貯蔵したり運んだりするのに使われていた。発泡スチロールを薄いシートにする新しい技術で、インスタントラーメンを発泡スチロールのカップに入れて売ることが可能になったのである。
 安藤はアメリカ滞在中に、このカップスタイルのラーメンのアイディアを最初に思いついた。彼はインスタントラーメンのビジネスを海外に広げるつもりでアメリカを訪れていたのだ。彼はアメリカ人が彼の(作った)インスタントラーメンを食べるのを見て心を動かされた。その男はラーメンを割って欠片にし、紙コップに入れ、その上にお湯を注ぎ、フォークを使って食べたのである。安藤はホテルの部屋に戻って同じようにインスタントラーメンを食べようと試みたが、カップは持つには熱すぎたうえに、彼は紙のにおいも好きになれなかった。1971年、安藤の会社は最初のカップヌードルの開発に成功し、おいしくて調理が簡単だったため、それは日本でも世界でも人気になった。

Part3   

日本は2004年には8300万個のインスタントラーメンを輸出した。海外で食べられているインスタントラーメンの数は、日本で食べられている量の13倍以上にのぼる。
 毎年世界で食べられている数十億個のうちの多くは、それらが食べられる国で作られている。インスタントラーメンは、世界中でその土地の人の嗜好や食習慣にうまく合うように変えられてきた。例えば、アメリカではほとんどのインスタントラーメンが鶏ガラスープをベースにしている一方で、ブラジルではトマト風味やチーズ風味のラーメンが人気である。アジアの国々では香辛料が非常に重要なので、中国で売られているインスタントラーメンは中国の香辛料で味付けされており、タイで売られているものは伝統的なトムヤム・スープのような味がする。
 私たちが他の国々でインスタントラーメンを売る時に考慮すべきことは味だけではない。宗教的な理由で、ヒンディー教徒は牛肉を食べないし、イスラム教徒は豚肉を食べない。それゆえに、ヒンディー教とイスラム教が2大宗教であるインドではベジタリアン・ラーメン(菜食主義者用のラーメン)が作られている。

Part4 

今や、インスタントラーメンは宇宙でも食べることが出来る。スペースラムと名付けられたインスタントラーメンが、2005年にスペースシャトルで宇宙へ行った。インスタントラーメンが地球からそれほどまでに遠くへ旅するのは初めてのことだった。日本のラーメン会社の1つが、その製品を無重力でも食べられるように改良したのだ。JAXAがそのプロジェクトを援助した。
 スペースラムのラーメンは揚げられ、どろどろしたスープに覆われており、それぞれのビニール袋に3口分ずつ入っている。それらは普通のインスタントラーメンのような味がするが、ほんの少しだけ辛めである。そのラーメンは熱い状態で出される(食べられる)わけではなく、生ぬるい状態で出される(食べられる)。
 そのラーメン会社は、70度のお湯を注いで5分そのままにしておくことで作ることが出来るインスタントラーメンを開発することで、スペースシャトル内の水の温度の問題を回避しようと懸命に努力した。
 スペースシャトルに乗り込んだ日本人の宇宙飛行士である野口聡一は、4種類のスペースラムを一緒に持ち込んだ。彼はそれらが地上で食べられる普通のラーメン同然だと言った。
 インスタントラーメンは宇宙においてさえも有名なファーストフードになったが、あまり頻繁に食べないように!
和泉式部が、藤原保昌の妻として(夫の任地である)丹後に(都から)下っていた頃、


都で歌合があった時に、(和泉式部の娘の)小式部内侍が、歌を詠む人に選ばれて、


歌を詠むことになったのを、中納言定頼がふざけて小式部内侍に、


「(お母様のいらっしゃる)丹後へ使わした人はやってきましたか


(つまり、代わりにお母様に詠んでもらった歌は、あなたの元に届きましたか)」と言い捨てて、


(小式部内侍のいる)局の前を通り過ぎたのを、小式部内侍が、御簾から半ば出てきて、


       大江山いくのの道の遠ければまだふみもみず天の橋立

【大江山を超えて生野(丹後の知名)へ行く道のりは遠いので、
まだ母のいる天の橋立を訪れたことはなく、そのように遠いところですから、
母からの手紙もありません。という意味の歌。
 定頼の中納言の皮肉な質問に、才能たっぷりの歌を即座に詠んで返し、
母が代作をしているのではないかという噂を一蹴すると同時に、中納言を見返したのです。
かっこいいですね!】


と詠んだ。定頼は、思いがけないことに驚きあきれ、「こんなことがあってよいのか。」


とだけ言って、返歌もできず、袖を振り切って、その場からお逃げになった。


小式部は、このことがきっかけで、歌人として、世の評判が出て来たそうだ。





↑ここまでが、中間テスト範囲

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 これも、今となっては昔の話、忠明という警察官がいた。その忠明が若かったとき、清水寺の階段のもとで、京都の若者たちとけんかをした。若者たちはそれぞれ刀を抜いて、忠明を取り囲んで殺そうとしたので、忠明も刀を抜いて、お堂のほうへ上ると、お堂の東の端にもたくさんの若者たちが立って、向かってきたので、内側へ逃げて、蔀(しとみ。戸板)の下側を脇にはさんで、前の谷へ飛び落ちた。蔀は風にあおられて、谷の底に、鳥が止まるように静かに落ちたので、そこから逃げて行った。京の若者たちは、谷を見おろして、驚きあきれ、立ち並んで見ていたが、どうしようもなくて、そのけんかはそこで終わりになった、ということなのかも★

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