グアムで亡くなった父の面影を探して
雅子さんの父、萩野長善さん1913年8月13日に高知で生まれた。本籍地は高知県安芸郡伊尾木村伊尾木29。陸軍伍長を務め、グアムで1944年9月30日に戦死した。享年31歳。
「父は、城東商業高校(現高知高校)の卒業生です。野球部に所属して、キャッチャーで主将も務めたようです。卒業後四国銀行に就職しました。」
その頃、雅子さんの母方の伯父が、神戸で鈴木商店に勤務しており、昭和恐慌の影響で会社が分裂。現在の日本発条社のルーツにあたる会社で働くことになった。
「経理担当者を探していて、四国銀行から父を引き抜いたんです。そして、妹である母とお見合いをして結婚することになったようです。その後、神戸で父は子会社である桑原商事で働いていました。」
雅子さんは1941年2月神戸生まれ。1942年の夏に長善さんは高知・朝倉から満州へ出征した。その後、戦況の悪化に伴い、一家は高知の井口町に疎開した。
「父に抱かれた写真が残ってますが、1歳半までのものしかないので、記憶にはありません。満州からグアムへ移り、私が3歳の時に戦死しています。」
終戦後、高知で遺骨も戻らぬまま一家は葬儀をした。骨壷の中には紙が入っているだけだったようだ。当初は南太平洋方面で戦死としか知らされなかったという。
「死亡通知には9月30日とあるが、私は7月20日か8月の頭なのではないかと考えています。タモンビーチのハイヤットリージェンシーホテルの近くに、高知の連帯が隠れていた防空壕(トーチカ)がいまも残ってます。でも、玉砕といわれ、父がいつどこでどのように亡くなったのかはわかりません。」
雅子さんは戦後、高知大学教育学部附属小学校から土佐中学校・高等学校を経て同志社女子大学へと進んだ。日本航空に入社し大阪空港支店に配属される。
「小学校へ入ると、親が戦死したという同世代がたくさんいました。本当に多かったですよ。伯父は最後社長にもなったような方で資金力もあり、従兄弟たちと一緒に7番目の子どものように可愛がってくれました。だからこそ、私は不自由せずに学び、働くことができました。」
大学時代、京都の宣教師の方の家に、英語が学べると思いお手伝いに行っていた雅子さん。同じように英語を学びにきた、岡山出身で当時広島大学の学生だった男性と出会う。仁後文晃さんである。これがきっかけとなり、交際に発展。めでたく結婚することになった。
「私の人生そのものは、たくさん楽しいことがありました。友達も良い人ばかりで、親戚たちも可愛がってくれて。でも、ずっと母子家庭だったので、就職する時も、結婚する時も、もし父がいたらどんな言葉を贈ってくれただろうかといつも思っていました。主人は、私のそのような気持ちをとても理解してくれていて、父親の役割も果たしてくれたように思います。」
文晃さんは、高千穂交易社で働くことになり、バロース社(現日本ユニシス)製の電子計算機を扱っていた関係で、1977年から80年までアメリカ・ミシガンに駐在することになった。
「子どもも3人(当時9歳・7歳・3歳)おりましたが、みんなでアメリカに行きました。子どもたちはすっかりアメリカの文化が好きになりましたね。」
その後、父親が亡くなったグアムに子どもたちを連れて訪ねるようになった雅子さん。慰霊塔で祈りを捧げ、父を偲んだ。孫たちも連れて行った。計画から旅行会社との交渉、会計など全て子どもたちが手配し、雅子さんは成長を頼もしく感じているという。
「還暦でグアムに行った時に、その時のことを朝日新聞ひととき欄に投稿しました。この記事を見て、同じくグアム戦の戦没者遺族である松本さんと内藤さんからご連絡をいただいたんです。アガットに慰霊碑を建てる活動をしているので協力いただけないかという話でした。」
最初は警戒していた雅子さん。文晃さんと共に所沢の航空公園で会って話を聞くことにしたという。最終的には寄附をして、子ども3人と自分の名前を刻んでもらった。その後、慰霊碑が完成した時に、「除幕式をするので一緒に行きませんか?」と誘われ、文晃さんと共にグアムへ向かった。
「そこで、グアム現地で慰霊活動をしているピースリング・オブ・グアムと連携して日本側で活動する団体を立ち上げようという話になりました。日米合同の慰霊祭に参加して、両国の和解の象徴のような活動だなと、素晴らしいなと思っていましたので、私も賛同しました。遺骨収集などについて厚生労働省にどんなにお願いしても、なかなか動いてもらえないことをもどかしく感じていたので、そういう点でも遺族たちが力を合わせることはいいなと感じていました。」
ピースリングでは監事として活動に関わる雅子さん。小学校や公民館に頼まれて、狭山で語り部活動にも取り組んでいる。
「春彼岸慰霊祭は内藤さんのアイデアで始まりました。千鳥ヶ淵戦没者墓苑で開催していることは良いことだと思います。いつも開催する3月には桜が満開になります。父にもこの景色を見て欲しかったと思います。」
グアムの考古学者で、ピースリングに協力していただいているジョン・マークさんから娘が情報を知り、厚生労働省のDNA鑑定の制度に申し込んだが、いまだにマッチングはしていない。
「母は何度かグアムに誘いしましたが、見たくないと言われて最後まで行きませんでした。再婚の話も来ていたようなんですが、連れ子になる私がかわいそうだということで断っていたようです。戦争は男だけのものではないんですよね。みんなが巻き込まれます。」
グアム島には、黒い蝶がよく飛んでいる。遺族はこの蝶を兵隊さんの魂ではないかと言いながら、亡くなられた方々に思いを馳せる。
「帰還兵の中西さんと良くビーチを歩きながら、黒い蝶を見つけると兵隊さんかな、なんて話してました。ある時、高知の馬路村に行った時のことです。宿泊施設にも黒い蝶が現れたんです。父の出身地の伊尾木村はすぐ隣なので、父が私たちの様子を見に来たのかもしれないと思いました。」
最後に、ピースリングの活動や次世代への思いを伺った。
「戦争が父を奪ったので、どんなことがあっても戦争はやめてほしいと思います。戦いになる前に話し合いで解決してほしい。そもそも、なんでこんなに大きな戦争になったのか、自分の国の指導者がどうだったのか、若い人たちには賢くなってほしいです。若い人に平和が大事だということを引き継いでいきたいと思います。」
戦後80年を迎え、戦争を直接経験した方だけではなく、戦争経験者が身近にいる方も少なくなる中で、平和や慰霊の活動に取り組んできた方々の思いも、次世代がしっかり引き継いでいきたいと改めて感じるお話だった。
仁後雅子
1941年兵庫県生まれ/高知県育ち
元日本航空株式会社
NPO法人ピースリング・オブ・グアム・ジャパン監事