本日、「戦争は政治(外交)の一手段」という内容に触れたブログを

拝読させて頂いた

 

クラウゼヴィッツがその著書「戦争論」の中で唱えた

有名な言葉だ

 

美しいクズ保守を主とする美しい日本人に

国際情勢や国防、戦争などを論ずる資格が1ミリもないということは

本来一手段であるべき戦争を、あたかも目的であるかのような考えから

まったく脱却できない花畑筋肉脳的低能っぷりを見ればわかる

 

外交問題を「話し合いだけで解決できるものならやってみろ」的な思考が

主な原因だが、そもそも外交を、茶の湯の席や女子会のような

長閑な話し合いの場だと勘違いしている時点で、日本人極まりない

 

少し歴史を振り返ってみても、たとえばイギリスが帝国を失ったあとも

先進国として影響力を保っていられるのは、よく言えばしたたか

より直接的に表現すると「悪辣な」外交手腕によるものだ

 

少なくとも、どこかの美しい帝国のように

国運を賭した大戦争の宣戦布告文書の通達が予定時刻より遅れるなどという

花畑筋肉脳保守的な美しさとは対極にあると考えてよいだろう

 

 

とはいえ、クラウゼヴィッツは19世紀の人であり、

その論理も当時の世界常識を背景として組み上げられている

 

21世紀となった今、それをそのまま適用可能なのだろうか、と

ふと疑問に思った

 

具体的には「戦争は政治(外交)の一手段」という概念から

「戦争は政治(外交)の手段たりえない」というように変化したのではないか

という考え方だ

 

その根拠としては、

クラウゼヴィッツが生きた19世紀までは、

戦時賠償や領土割譲などにより、戦争による利益(国益)を確保することが

まだ可能だった

 

ところが、科学技術の発達とともに、

戦争にかかる費用と、それがもたらす損害は、

一国の負担の限界を超えるようになった

 

第一次世界大戦では戦勝国たるイギリス、フランスは疲弊し

ロシアに至っては革命により帝政が崩壊した

 

そして、第二次世界大戦では、戦勝国たるイギリスは世界帝国を失い

フランスも植民地を失った

 

なんらかの利益を得た(ように思われる)のは、

国力が他国とは冠絶しているアメリカのみ

 

そのアメリカでさえ、その後の朝鮮戦争やベトナム戦争では

勝利する(戦争目的を達成する)ことは叶わなかった

 

直近では、ロシアのウクライナ進攻も当てはまる

国力・軍事力では大きく上回っているはずのロシアだが

当初の戦争目的を達成しうる可能性は限りなく低く

仮にどこかで「落としどころ」が見つかったとしても

損害(及びコスト)に見合った結果とはならないであろう

 

今や戦争でなんらかの利益を上げる手段は一つしかなく

それは、湾岸戦争のように多数の国が「寄ってたかって」1国を叩くような

懲罰戦争しかありえない

 

つまり、(アメリカ主導の茶番以外の)純粋な外交において

戦争という選択はあり得ないということ

 

唯一許容されるとしたら、他国の侵略を受けた場合の

完全なる自衛戦争のみだが、先述の理由から「他国」が

日本に戦争を仕掛けるなどということはほぼ完全にあり得ない

 

仮に、この美しい国が戦争に巻き込まれる可能性があるとしたら

「外交問題解決のためには戦争も辞さない」などと張り切っている

はた迷惑な美しい保守(愛国者)と、それに扇動された貧民どもが

発狂した場合のみであろう

 

自ら、政治的にまったく意味のない対中国戦争(日中戦争)をおっぱじめ

調子に乗って仏印進駐を強行し、石油禁輸という自業自得の結果に

逆ギレ・発狂して、後先考えずアメリカに殴り掛かった

クソ間抜けな歴史の再来だ

 

台湾有事だか尖閣危機だが知らないが、

「話し合いなんぞより戦争も辞さない」と1ミリでも考えている

花畑筋肉脳クズ貧民どもよ

 

あのクソ間抜け戦争(太平洋戦争)は、どうやったらアメリカに勝てたの?

勝つための戦争戦略は?

同じく、今中国に戦争吹っ掛けて、どうやったら勝てるの?

勝つための戦争戦略は?

 

それ(国家戦略)もまったくないのに「戦争も辞さない」だと?

 

それは戦争初めてから考えるってか?

それとも、またぞろ「一億火の玉玉砕よ♪」の精神か?

ハルノートがー、か?

 

すげーよ、日本人

 

毎度毎度、

本当に、毎度毎度毎度

 

日本最高、日本一番、俺最高、的な花畑筋肉脳精神の持ち主

はた迷惑にも国を愛してやまないクズ保守、クズ愛国者、クズ貧民が

何度も懲りずに、この国を滅ぼす

 

世界一無能な働き者

それが、美しい日本人