8月6日も、ただの日となってしまったのか

 

自らを焼き尽くした元凶の中からしか道徳を学べないという

臣民の心の貧しさよ

 

 

 

 

戦後、教育勅語がなぜ廃されたのか

 

そもそも「勅語」という言葉自体、天子から下される言葉の意味であり

民主主義、立憲君主制とは相容れない

 

引用した部分も、「爾臣民・・」から始まっており、

自らを、君主に支配されるもの(臣)と定義してしまっている

 

「朕惟フニ・・」など、正気か?

 

「いや、そこの部分は読み替えて♪」なんて言ったら

そもそも「勅語」ではなくなる

 

「教育勅語」

あえて選んで、わざわざ引用しているのだから、

そういう美しい精神の持ち主としか思えない

 

「評価しても良い部分がある」だと?

 

そんな理屈でいえば、カルト宗教の教義や、ナチスの教育の中にだって

「評価しても良い部分」はあるだろう

プーチンロシアや、金朝鮮王朝の教育の中にもね

 

問題は、職員研修の教材として数多ある資料の中から、

なぜわざわざ「教育勅語」を使う必要があったのかということ

 

天皇を現人神とすることで、都合よく政治利用した大日本帝国

その大いなる「負の遺産」からしか、「評価してよいもの」を

選択できなかったというのなら、その知見と精神のあまりの貧しさに

言葉を失ってしまう

 

一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ幸運ヲ扶翼スヘシ

 

有事があれば、国のために奉公し死ね

我らは裏金作ろうが戦争起こそうが国を憂うる偉い人なのだ

絶対の神を頂く我こそ国家なのだ

爾臣民どもよ、権利ばかり主張せず、

ただ、我らの言うことを聞き命がけで奉公せよ

帝国万歳、万々歳

(我らは裏で、公金チューチュー、またチューチュー♪)

 

過去からも現在からも何も学ばない

脳内で理想の花畑だけを夢見る美しい保守思想

 

美しい国美しい国民

 

結局、広島にしてもこれか

 

8月6日に、もはや意味はなく、

単なる美しい日となってしまったようだ