リビングストーン教会主日礼拝2017.4.9

聖書本文:マタイによる福音書27:35-54

主題:暗闇における3つの叫び

こんにちは、今週から受難週が始まります。イエス様はエルサレムにおいて、私達罪人の救いのために、十字架上で苦しみを受けられました。暦の上では、イエス様は木曜日にユダに裏切られ、ローマ兵やユダヤ人指導者たちに売り渡され、金曜日の早朝に法律的に無効と考えられる裁判を無理やり行い、イエスが神を冒涜したという罪で死刑にしました。そしてイエスはローマ総督のポンテオ・ピラトの前で死刑を言い渡され、ローマ兵により鞭で打ち叩かれたのち、午前9時に十字架に付けられました。そしてイエスは6時間に渡り、十字架上で苦しまれ、午後3時に息を引き取られます。今日はイエス様の十字架の苦難を覚えて、「暗闇における3つの叫び」という主題で御言葉を分かち合いたいと思います。今日の本文を見ながら、私達は3つの声、叫びを聞き取ることができます。それは、私達にとって、イエス様が成し遂げた十字架の救いを明らかにするものでありました。

まず、その叫びは暗闇の中で発せられました。45節をお読みしましょう。
45さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。
私達がイエス様の生涯を考える時に、色々な分け方をすることができます。まず、イエス様は30年を世から隠された生涯として過ごされました。そして、洗礼者ヨハネから洗礼を受け、3年間、公の生涯を行いました。そこで奇跡を行い、病人を癒し、死者を生き返らせ、神の言葉を語りました。そして、今日の本文はイエス様の生涯の最後の3時間に焦点を当てています。それは、主イエスが十字架上で息を引き取られるまでの、『暗闇の3時間』であります。私達は暗闇を通して何を想像するでしょうか?それは絶望であり、罪の深刻さであり、神の怒りを思い浮かべることもできるでしょう。その暗闇の3時間は、今までイエス様が地上で苦しみを迫害され、石を投げられ、また裏切られた時とも違う、暗さを持った時間でした。なぜ、その時、全地は暗くなったのでしょうか?それはイエス様の最初の叫びに現れています。
46三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
イエス様の叫びはこうです。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか?」私達はマタイがこれを明確に書き記している事を注目しなければなりません。人生の最後において、人々は色々な言葉を残したいと思います。「さあ、修行僧たちよ。お前たちに告げよう、『もろもろの出来事は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を成し遂げなさい』と。」
仏陀は数多くの弟子たちに見守られながら、尊敬されながら、この言葉を発しました。仏陀は人生の全ての時間を通して、生きる事、老いる事、病に苦しみ、死に至るという人間の4つの苦しみの問題から解脱する為に修行を最後まで全うしました。これは偉大な修行僧の言葉でした。その後、仏陀は息を引き取りました。これは悟りを開いた人、偉大な聖人としての、立派な最後です。ところが、イエスに関してはどうでしょうか?弟子たちに囲まれていたでしょうか?いいえ、弟子達は皆、逃げ出していました。尊敬されていたでしょうか?いいえ、人々から呪われた死刑囚として軽蔑されていました。知恵に満ちた偉大な、励ましの言葉を弟子達に残したでしょうか?いいえ、「なぜ、神は私を見捨てたのですか?」考えて見ると、何という違いでしょうか?仏陀とイエスの最後は、あまりにも違い過ぎると思います。一方では弟子たちに最後まで尊敬され、素晴らしい言葉を残して死なれました。他方では弟子たちに裏切られ、逃げられ、神にまで見捨てられたと嘆きの言葉を残して、十字架で死んだのです。何の英雄的な最後も見られません。多くの人々にとって、イエスのこの言葉がつまづきになっています。ある人は、イエスはついに救い主である事をあきらめたと、最後には弱音を吐いたと言います。これこそがイエスが成功者ではなく、失敗者であることの証拠だと言います。イエスは人に裏切られ、神に見捨てられたのだと言います。本当にそうでしょうか?答えは「両方」です。その通りではないと言えるし、その通りであるとも言えます。

ダビデ預言の成就


この福音書の著者はマタイです。そして、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになるのですか」という言葉はマタイの福音書だけに書かれています。そして、マタイはこの福音書を主にユダヤ人に向けて書きました。それ故に、異邦人には理解できないイエスの系図があり、数多く出てくる言葉は、『預言者を通して言われていた言葉が実現する為であった』というものです。つまり、マタイは、ユダヤ人に向けて、旧約聖書の預言の成就という形で福音書の物語を書いていた事を覚えなければなりません。そして、まさに今日のこの場面も、旧約聖書の預言の成就を表しているのです。
それはダビデが書いた詩編22編です。
詩編22:2わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか。
この詩編はいつ、どのような状況で書かれたのか分かりません。しかし、ダビデが置かれた苦しみの中で書かれた詩編だと思われます。であると同時に、「聖書は私について書かれている」とイエス様が言われた通り、全ての旧約聖書は来るべき救い主イエスを指し示しています。だからこそ、私達はイエスの十字架に至る苦しみは詩編22編の実現であるという事ができます。マタイも恐らくそれを意識して書いたはずです。詩編とマタイの福音書を比べてみましょう。

(預言)
詩編22:7 わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥。 8わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い/唇を突き出し、頭を振る。 9「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら/助けてくださるだろう。」

(成就)
マタイ27:39そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、 40言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」 41同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。 42「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。 43神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」

(預言)
詩編22:18骨が数えられる程になったわたしのからだを/彼らはさらしものにして眺め 19わたしの着物を分け/衣を取ろうとしてくじを引く。

(成就)
35彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、 36そこに座って見張りをしていた。

ユダヤ人の中で、特に聖書に通じている律法学者やファリサイ派はイエスの言葉が何を意味するか、気付いたはずです。このように、イエスが語った言葉は、決して嘆きの言葉、あきらめの言葉ではなく、神の約束の実現であることをユダヤ人に示しました。
そして、多くの聖書を批判する人々が主張するように、イエスは神に見捨てられたのでしょうか?イエスは失敗者でしょうか?ある意味、それは正しい主張です。確かにイエスは神に見捨てられ、失敗者になりました。しかし、それがなぜ、何のためなのか?それが核心的に大切なことです。それは私達の為、だからです。

見捨てられた救い主


マイケル・グリーンという説教者はこのように言いました。数多くの宗教が信じる神の中で、完全に見捨てられた孤独な状況を経験した神はイエスだけであると。イエスは人から裏切られ、父なる神に見捨てられました。それは本来私達が担うべき神からの分離と孤独感です。多くの心理学者は、自分の家族から裏切られ、見捨てられること以上にトラウマになるものはないと言います。誰であれ、夫や妻から、子供や父親から見捨てられるのは大きな心の傷を残します。イエス様は父なる神から見捨てられました。その孤独と絶望に対する叫びが47節です。実にそれは、体の痛みや、人間関係の痛みではありません。イエス様はこの時点に至るまで、屠り場に引かれる小羊のように、沈黙を保ち、鞭打たれ、十字架を背負う苦しみを耐え忍びました。このイエス様の叫びは、神から見捨てられた者の叫びです。そして、それはイエス様の叫びというよりは、全ての人間の叫びでもあります。現代を生きる多くの人々は、多くの孤独感を抱えて生きています。現代はインターネットの時代です。多くの人々が、あらゆる方法で「つながる」ことができる時代です。24時間365日、インターネットを通してつながっている時代です。しかし、そういう時代だからこそ、人々はなおさら孤独感を感じています。東京を生きる人々はどれほど孤独感を感じているでしょうか?その背景には、神からの分離があります。誰しも、罪の結果は神から見捨てられることです。アダムは楽園から追い出されました。イスラエルは約束の地からバビロンに連れて行かれました。イエスは、ご自分が治めるべき都市であるエルサレムの城壁の外へ追い出され、そこで十字架に付けられました。イエス様はこの時に、神から最も遠い場所にいました。神から断絶されていました。これこそが、3時間の暗闇を意味します。しかし、イエス様が最も神から遠く離れた場所にいるということはどういう意味でしょうか?それは、実は私達と最も近い場所におられたということです。私達こそが、罪ある者として、エデンの園から追い出され、約束の地から捕虜として連れて行かれるような、神に背いた存在です。イエス様は、十字架の上で、神から遠く話されることにより、実は私達に最も近づいて下さいました。イエス様は私達の孤独と不安をご存知のお方です。私達がそうであるように、イエス様も神から断絶されたからです。私達はこのようにして、世界が暗闇に包まれている中で、私達に近づいて下さったことを感謝します。それは、私達が罪の暗闇から、驚くべき光の中に入るためでした。

一ペテロ2:9しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。 10 あなたがたは、/「かつては神の民ではなかったが、/今は神の民であり、/憐れみを受けなかったが、/今は憐れみを受けている」のです。

私達が暗闇の中から驚くべき光の中に入ることができたのは、まずイエス様が私達の為に暗闇の中に入られたからです。10節にあるように、神の民でなかったのに、神の民になれたのは、神の民の第一人者であるイエス様が、神の民から罪人になられたからであり、かつて憐れみを受けていなかったのに、今は憐れみを受けているのは、イエス様こそが憐れみを受けるべき神の独り子なのに、全ての神の憐れみから切り離され、見捨てられて下さったからです。私達が信頼するイエス様は、見捨てられた者の悲しみ、孤独を知る神様であります。私達はそのイエス様と共にいることで、孤独から解放されます。イエス様を通して、満足と平安を得る事ができます。現代の多くの問題は、人々の心の中にある孤独感、不安感から来ているものがあります。イエス様は、現代において、見捨てられた悲しみ、孤独を知る人々に本当の答えを与えることができると信じます。私達が遣わされる全ての生活の現場において、人に裏切られ、父なる神に見捨てられたイエス様こそが、現代社会において人に裏切られ、見捨てられた人々に対する明確な答えであることを確信して、主の福音を伝える私達になることを願います。