リビングストーン教会説教

主題 悔い改めて、福音を信じる


二つの主題があります。
まず、イエスの十字架は「私達のために」なされた出来事です。まさに真理です。これは、私達に対して神の愛の偉大さ、神の赦しの偉大さを明らかにします。イエスは私達の為に、「自ら」死んで下さいました。偉大な犠牲の愛を示し、私達に神の愛を受け入れるようにさせます。しかし、その前に、まず通らなければならない真理があります。それは、イエスの十字架は「私達の手によって」なされた出来事です。

つまり、私達の憎しみに満ちた心、神に対する不信仰と不従順な心、私達の罪にまみれた手が、イエスを十字架に付けたということです。この真理を悟る時、私達は自分がいかに罪深い存在であるかを悟るようになります。実に、私達にとって、十字架が私達の為の出来事であることを知ることは、私達を喜びと感謝に溢れさせ、確信と大胆さを与えるかもしれません。

しかし、これだけでは、私達は、自らの罪の前で謙遜になることはありません。もしかしたら、自分の罪深さを知らないまま、間違った自分の国を作り出すかもしれません。しかし、この真理の前に、十字架は私達によってなされた出来事であることを知ることは、私達を謙遜にさせ、神の前に低くさせます。私達を生かすのは、ただ神の恵みしかないということです。

なぜなら、その十字架は、私達がかけられるべき十字架であり、農夫が主人の息子を殺したように、私達の心の中にある罪、自分の正しさで生きる自分の王国が、神の国を征服し、イエスを殺したのだと知るようになるからです。これこそ、洗礼者ヨハネが「悔い改めて、福音を信じなさい」というメッセージの核心です。悔い改めとは、十字架が私達の手よってなされた事であることを認める事であり、福音は、十字架が、私達の為になされた事であることを認めることです。

だから、私達はイエスの例え話に対して、「そんなことがあってはなりません」と言うのではなく、「そうです、私こそ、主を十字架に付けて殺した者です」と告白し、神の前でへりくだる者になりましょう。私達はイエスを殺したけれども、その殺されたイエスのおかげで私達は生かされていると知る時に、私達は日々、福音の中に留まることができると信じます。

人手によらず切り出された石



最後に、イエスは実際の歴史で起きた奇妙な出来事を語りました。

17イエスは彼らを見つめて言われた。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。』 18その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」 19そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた。

17節の「隅の親石」は旧約聖書の詩編118編の引用であります。イエスは家を建てる者の捨てた石になりました。18節には、石の上に落ちる者は打ち砕かれ、その石が誰かの上に落ちれば、その石により押しつぶされると言います。その石はダニエル書2章に出てくる人手によらずに切り出された石です。

ダニエル2:34見ておられると、一つの石が人手によらずに切り出され、その像の鉄と陶土の足を打ち砕きました。35鉄も陶土も、青銅も銀も金も共に砕け、夏の打穀場のもみ殻のようになり、風に吹き払われ、跡形もなくなりました。その像を打った石は大きな山となり、全地に広がったのです。

この人手によらずに切り出された石は、ダニエル書でネブカドネザル王が見た幻、金の頭、銀の胸、青銅の腿、鉄の足の偶像、つまりこれはバビロン、ペルシャ、ギリシャ、ローマ帝国を始めとする世界中のあらゆる国々、権力を意味しますが、世の国々を打ち砕きます。そして、最後にはその石が、全ての国を裁き、全世界に広がるのです。これは終末の出来事を意味します。人手によらずに切り出された石こそが、イエス・キリストであり、キリストを通して始まる神の国、教会の姿です。確かにイエスは世の終わりに、全ての国々、全ての人々を裁くでしょう。しかし、人手によらずに切り出された石、世を打ち砕く石は、まず初めに、私達の救いの為に、捨てられた石に成らなければならなったということです。イエスは世を裁く前に、世によって、裁かれなければなりませんでした。イエスは私達を裁く前に、私達によって裁かれなければなりませんでした。神は私達を裁く前に、赦したいと願われたからです。それゆえに、イエスは二千年前に、神の裁きを下す為ではなく、神の裁きを背負う為にこの世に来られていました。この時こそ、救いの時、恵みの時でした。しかし、ユダヤの指導者たちは、今こそが恵みの時、救いの時であることに気づきませんでした。私達はどうでしょうか?今こそ恵みの時であります。

この真理を悟る時に、素晴らしいことが起こります。私達の罪の為に打ち砕かれたイエスを知る時に、実は私達も打ち砕かれます。それは、私達の高慢な心、プライドが打ち砕かれます。罪の根は高慢であり、プライドであり、自我です。しかし、イエスの十字架の恵みを知る時に、私達自身が打ち砕かれるのではなく、私達の中にある高慢、プライドという自我が砕かれます。実に、イエスは罪人を打ち砕くことなく、罪を打ち砕こうとされました。それゆえに、福音の中に生きる時、私達は赦された罪人として、日々、自我という罪を打ち砕かれながら、主の恵みの中を生きることができることを主に感謝しましょう。

最後に、ユダヤ人たちは、この例え話を否定しましたが、私達がもし、この例え話をありのままに受け入れるならば、素晴らしい逆転現象が起こります。この例え話の農夫は、ただ主人からぶどう園を貸してもらっただけでした。主人はぶどう園を農夫に貸した、所有者であり、農夫は管理人にすぎません。農夫は結局、主人の息子を殺しました。そしてぶどう園は取り上げられたのです。私達はイエスを十字架に付けた罪人、農夫のような存在です。しかし、もしこの真理を認め、悔い改めて、福音を信じるならば、驚くべきことが起こります。

ヨハネ1:12しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。

もはや、信じる者は、農夫ではなくなります。それは、ただぶどう園を貸し与えられた管理人ではなく、ぶどう園の主人の子供になるということ、それは自分達が殺した主人の息子と同じ立場にされるということです。これこそが、驚くべき聖書の真理であります。私たちは罪人であり、神の独り子を殺した存在なのに、悔い改めて、神の恵みを受け入れた時、もはや私達は農夫ではなく、主人の子供です。それこそ、イエス様と同じ、神の財産相続人の一人になります。これこそが、私達に与えられた大きな恵みであると信じます。イエスと共に天国を受け継ぐということ、神と共に全てを所有するということ、これこそが神の最大のプレゼントであると信じます。ローマ書8章にある通り、神の独り子さえも与えて下さったなら、他のものを与えて下さらないことがあるでしょうか?神は私達に、良きものを備えておられることを信じましょう。もちろん、私達にとって心地よい、快適なものではないかもしれません。しかし、主はその独り子を与えることを通して、ご自分の愛を私達に示されました。その恵みを心に留めて、主の恵みに感謝しながら、来るべき4月の受難集、十字架の苦難とイースターの復活の栄光を覚えて歩む私達になりましょう。


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