東京リビングストーン教会水曜礼拝2017.3.29

聖書本文:ルカによる福音書20:9



今日の本文は昨日のQTの箇所になります。この箇所はマタイ、マルコ、ルカによる福音書の3つの福音書に記されています。イエスは既にエルサレムに入り、律法学者やファリサイ派たちと論争する状況に置かれていました。今日の本文はまさにユダヤ人指導者たちに向けられて語られた御言葉でありますが、それは私達に向けられて語られた言葉でもあります。この例え話は聖書全体を例えた話でもあり、人類の歴史そのものでもあります。
まず、9節~12節に書かれている内容は、主にイエスの時代に至るまでの出来事、つまり旧約時代を意味します。

20:9イエスは民衆にこのたとえを話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。10収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。 11そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。 12更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した。

本文に出てくる「ある人」はぶどう園の主人であり、それはつまり父なる神ご自身です。ぶどう園の主人はぶどう園を作り、これを農夫たちに貸し与えました。ぶどう園とは、つまりイスラエル国家です。旧約時代から常々イスラエルはぶどう畑に例えられて来ました。まず、ぶどう園は貸し与えられたものです。本質的にこれはイスラエルのものではなく、主のものであり、所有権は主のものであるということです。だからこそ、その収穫は農夫が独り占めするのではなく、主人に捧げられるべきものでした。しかし、ぶどう園の農夫は収穫を主人にささげるのを拒否したということが語られています。このような出来事はいつから始まったでしょうか?それは、実に最初の園から始まりました。それはぶどう園というより、全ての良い果物が実っている園、エデンの園から始まりました。今日の例え話における大きな問題は、所有権の問題です。ぶどう園の主人が所有者であるにも関わらず、農夫がそれを拒んで、自分のものにしようとしたことです。それがまさに創世記3章で見られる出来事でした。アダムとエバが善と悪の木の実を食べたということ、これこそ彼らが創造主なる神が自分の主人であることを拒否したという象徴的な出来事でした。つまり、最初の人間であるアダムとエバから、実は人間はぶどう園の所有権を自分だと言い続けているということです。神の主権と神の所有権を拒否しているということです。

私達全ての人間はアダムの子孫であり、アダムの罪の性質を受け継いでいます。それ故に、イスラエル民族もアダムと同じことを繰り返しました。それは神の主権を拒否し続けて、神の僕として送られてきた預言者たちを迫害し続けました。そして真の神を拒み、自分に都合の良い偶像を拝んでいたという歴史であります。

そして、それはイスラエル民族だけの性質ではなく、私達の性質でもあります。私達は今も、神の恵みなくしては、主を拒否し続けていたはずです。奇妙に聞こえるかもしれませんが、私達が神を拒否し、神を信じないというのは、『非常に自然なこと』です。なぜなら、子供は必ず親に似ているからです。私も子供がいるから分かりますが、子供は願っても願わなくても、父親か母親の性質を受け継ぎます。だから、私達の両親がアダムとエバの子孫である以上、アダムとエバがしたことを、あらゆる人類が行い、私達が行うのは非常に『自然な』ことです。このようにして、私達は人生のある時まで、神を拒み、神を信じないで生きてきました。だからこそ、私達が今、神を信じ、神を追い求めて生きているということこそ、普通ではありえない奇跡であり、神の恵みの賜物であるということを心に留めましょう。イエス様がヨハネによる福音書 章で語った通り、神を信じることこそが神の業であります。

ユダヤ人と私達の生活


13そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』 14農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』 15そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。

続けて、13節~15節では、まさにイエス様の時代に起こるべき出来事について語っています。それは、ぶどう園の農夫が追い出され、迫害されたので、主人の一人息子が送られることになるということです。これはまさにこの時代に起こりました。神の独り子であるイエス様が神のぶどう園であるべきイスラエルに来られました。この例え話では、主人であり、父親であるお方は「愛する息子なら、受け入れてくれるだろう」という期待感を持っていました。そして、農夫たちは「これは跡取りだ」ということを知っていました。しかし、この例え話はこの箇所においては事実とは違うものになりました。まず、ぶどう園の主人は、一人息子なら受け入れてくれるだろうという期待感が描かれています。しかし、実際はどうでしょうか?父なる神は、その独り子であるイエス・キリストが受け入れられず、むしろ辱められ、鞭打たれて殺されることを最初から知っておられました。一人息子がイスラエルに来られても、殆ど多くの人々は受け入れないことを父なる神はご存知でありながら、父なる神は独り子を世に遣わしました。それは、それ以外に人々を罪から救う方法がないからであります。

そして、例え話では、農夫たちは、「この人が主人の独り息子だ」ということを知っていました。しかし、実際には、イエスがイスラエルに来られても、イエスが神の子であるとは、多くの人々は知らなかったし、それを認めませんでした。つまり、実際の歴史は、例え話よりもはるかにひどいものであったということです。いずれにしても、主人の独り息子は殺されることになります。その動機は、実は例え話も現実の歴史も共通しています。それは、農夫たちは「相続財産は自分たちのものになる」と知り、一人息子を殺しました。そして、イスラエルの民も、自分達は神の民であり、神の国は自分達のものであると信じながら、実は神の国ではなく、自分たちの国を作ろうとしていたということです。今日の例え話は、ただユダヤ人に対する非難の物語ではありません。それは、私達に対する警告でもあります。農夫がぶどう園を自分たちの所有物にしようとしたこと、ユダヤ人が、実は神の国ではなく、自分の栄光のための自分の王国を作ろうとしたこと、それは私達もまた、神の国ではなく、自分の国を作ろうとすることが大いにあり得るということです。当時のユダヤ人たちは、自分たちこそが、神の律法を持っている、自分たちこそが、神に選ばれた民であることを誇りました。また、特に宗教指導者たちは、自分達が律法を守る、その宗教的な行いのゆえに、神の前に正しいと信じていました。それは実は神の義に基づく国ではなく、自分の義に基づく国でした。律法主義はいつも、神の国ではなく、自分の国を作り上げます。イエス・キリストによる神の義によって、神の国が造られるのに対し、自分自身の行いの正しさ、自分の義によって、自分の王国が作り上げられます。そして、最も気を付けるべきことは、自分の王国は、世の中にではなく、教会の中に、クリスチャンの中にこそ建てられる可能性が高いということです。
なぜなら、私達は神を知り、神の御言葉を知り、神の言葉に従おうと生きています。その中で、私達は知らない間に、神の恵みの中で感謝して生きるよりは、自分の正しさを基準に相手を裁いて生きることが多くなります。なぜなら、正しさの源である神の言葉を知っているからです。世の人々は、そもそも絶対的な正しさを知らないかもしれません。

しかし、全てのクリスチャンは、絶対的な正しさである神の言葉を知っています。だからこそ、御言葉の正しさを元にして、自分の王国を作り上げてしまうことが多いのです。その時、実は私達は知らない間に神の独り子、イエス・キリストを追い出していることになります。

私達の手による十字架

イエス様は、ユダヤ人達に対してだけでなく、私達に対しても、御言葉を通して語り掛けています。それに対するユダヤ人の反応はこうでした。

16戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」彼らはこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。

ユダヤ人たちの反応は『そんなことがあってはなりません』というものでした。何が「そんなこと」でしょうか?まずは、農夫が主人の独り息子を殺すことはあり得ないということです。次に、そのぶどう園が他の人に与えられるということです。しかし、私達が福音によって救われる為に、そして、福音の中に生き続ける為に、心に覚えなければならないことがあります。それは、ユダヤ人が語ったような「そんなことはありません」という否定の言葉ではなく、「そうです、まさに私こそがまさにその例え話の通りです」と認めること、肯定することです。ユダヤ人達はこの時、例え話を否定しました。しかし、否定して、気にも留めないまま、この例え話の通りにイエスを殺してしまいました。私達が福音の恵みの中で生きる為に、自分の王国を築き、自分の正しさによって生きない為に、どうすれば良いでしょうか?それは、イエス様の例え話に出てくる農夫が、まさに自分であったと認めることです。農夫は最初からぶどう園の主人を拒み、自分のものにしようとしました。そして、主人の僕も、主人の息子も殺してしまいました。それが自分だと認めることは辛いことです。自分がイエスを十字架に付けたこと、自分がイエスを殺した罪人の頭であることを認めることだからです。しかし、私達が福音の恵みの中で生きる為には、まさにこれが必要です。私がイエスを十字架に付けて殺した罪人の頭です。これが私達が福音の中で生きる為の第一の条件です。

有名な神学者であるジョン・ストットはこのように言いました。
私達が、イエスの十字架を、『私達の為に』なされた出来事だと知る前に、まず、
 イエスの十字架は、『私達によって、私達の手によって』なされた出来事だと知らなければならない。

ということです。

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