東京リビングストーン教会説教
復活に対する希望


永遠の霊魂に対する希望ではない。死者の復活に対する希望。

テサロニケの信徒への手紙一第4章13節から16節
「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、」

パウロの希望、すなわち神が御言葉において私たちに下さった希望にはただ一つの名前しかありません。それは復活です。現在から復活までの間のある時点で、私たちのうちのある者は、あるいは恐らく私たち皆が(主がいつ来られるかによりますが、誰にもこの時がいつであるかは分かりません)死にます。その時私たちは天国か楽園に行って至福の状態に入るわけではありません。そうではなく、私たちは眠りにつくのです。

多くの人々はこのように考えます。これはヘブライ思想というよりギリシャ哲学、プラトンの思想です。
「人は体と魂から成っている。体とは魂を宿すために機能する物理的な血肉の「外殻」である。魂とは意思、感情などの非物質的な部分である。死において魂は体を離れ、天国か地獄において永遠に意識を持って行き続ける。」

恐らく、英語の聖書で「魂(soul)」と訳されているヘブル語「nephesh」の意味をどうとらえるかです。
Nepheshとは「命の本質、呼吸する行為、息をすること... 英語の「魂(soul)」という語にある問題は、ヘブル語では実際にそれに匹敵する語や、その背後にある思想が表されていないことである。ヘブル語の思想体系には「体」と「魂」という組み合わせや対比は含まれておらず、それは実際はギリシャ語とラテン語に起源があるものである。(Vine’s Complete Expository Dictionary of Old and New Testament Words, 1985, p. 237-238, 筆者強調).

「Nephesh」(またはギリシャ語新約聖書では「Psuchi」)、魂とは、神の御言葉によると単純に呼吸であり、また命です。創世記第2章7節にはこの真理が非常にはっきりと示されています。

創世記第2章7節
「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった[ヘブル語で「nephesh」]。

御言葉が魂について、それが何か体とは別のものであるとは語っていないことに注目してください。「人は生きる者(living soul)となった。」今日呼吸している私たち一人一人は生きる者(living soul)です。私たちは最後の息を吐き終えたら、もはや生きる者(living soul)ではなくなります。私たちはちょうど深い眠りの間意識がないように、意識のない眠りにつきます。それは肉体と魂の分離とは違うものです。それはギリシャ思想であり、ヘブライ思想ではありません。

神の御言葉による定義を採用すれば、動物にも魂があるとわかっても問題はありません。

創世記第1章20節から21節
「神は言われた。『生き物[nephesh, soul]が水の中に群がれ。鳥は地の上、天の大空の面を飛べ。』神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物、うごめく生き物 [『nephesh』、soul、近代キングジェームズ訳その他にても] をそれぞれに、また、翼ある鳥をそれぞれに創造された。神はこれを見て、良しとされた。」

そして創世記第1章29節から30節
「神は言われた。『見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命[ヘブル語でnephesh]あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。』そのようになった。」

明らかに魂には一切抽象性がありません。何でも呼吸をするものは、人間であれ動物であれ、命あるもの(living soul)です。では、いわゆる「霊魂不滅」という教理はどこから来たのでしょうか。これが次に私たちが取り扱う問題です。

霊魂の不滅性:プラトン哲学の信念


霊魂の不滅性という思想の起源に関しては、この信念はギリシャ哲学から出たもので、特にプラトンとソクラテスという二人の主要なギリシャ哲学者よって詳細に説かれました。

「人間の不死性は、部分的にキリスト教会に取り入れられたプラトン主義的宗教哲学の基礎的な信条の一つである。」 (Werner Jaeger, “The Greek ideas of immortality”, Harvard Theological Review, Volume LII, July 1959, Number 3).

聖書翻訳家のティンダルは、焚刑に処せられましたが、霊魂不滅の教義について、ローマ教皇の支持者トマス・モア に答えて次のように言いました。

また私は、復活に関して死者が再び蘇えることをパウロが知っていたように、もしも彼が死者の魂が喜びの中にあると知っていたとしたら、彼がその教理[彼が言っているのは霊魂不滅の教理です] を以ってテサロニケの信徒たちを慰めなかったことに驚いています。あなたの教理にもとづいて、魂が、天使たちと同様に素晴らしい栄光あるものとして天国にあるとするならば、復活に何の意味があるのか私に示してください。

死者の復活は教会の信条として保たれているものの、もしも死者が死の直後に不死となるのなら、復活には何の意味があるでしょう。ティンダルが「あなた方の教理によるように、魂が天使たちほどの素晴らしい栄光を有して天国にあるとするなら、復活に何の意味があるのか教えてください。」と尋ねたのはまさしく正しいことだったのです。「霊魂不滅の教義」、「肉体と魂の分離」という考えは実は非聖書的で、異教的であり、死者の復活という聖書の教義とは本質的に相容れないものです。もしも死者が現在生きているのなら、確かに復活には意味がなくなってしまいます。復活は死者を生き返らせることを狙っているのですから!既に霊魂という形で生きているなら、何の意味があるのでしょうか?ただの霊魂不滅と天国(幽霊のように、透明な体でさまよう)ならば、多くの日本人も信じているでしょう。世界中の多くの特定の宗教を信じない人々もそのように考えています。キリスト教が語る天国と復活の教理はそれ以上であり、本質的に異なるということです。
復活は私達に与えられた真の希望であります。それは、肉体を伴う確実な未来です。抽象的なものではなく、具体的なものです。それゆえに、私達もまた具体的な天国を希望し、復活を期待し、待ち望みつつ歩む者になりましょう。

復活に基づく生活



イエスの復活の確実性を元に、私達はどのようにクリスチャンとして歩むべきでしょうか?

15それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。 16信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。 17信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。 18手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」 19主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。 20一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。〕

イザヤ65:17見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。 18代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。わたしは創造する。見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとして/その民を喜び楽しむものとして、創造する。 19わたしはエルサレムを喜びとし/わたしの民を楽しみとする。泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない。 20そこには、もはや若死にする者も/年老いて長寿を満たさない者もなくなる。百歳で死ぬ者は若者とされ/百歳に達しない者は呪われた者とされる。 25狼と小羊は共に草をはみ/獅子は牛のようにわらを食べ、蛇は塵を食べ物とし/わたしの聖なる山のどこにおいても/害することも滅ぼすこともない、と主は言われる。

私達はイエス様が17節、18節を語るのを聞きながら、イザヤ書65章を思い出します。そこには主が造られる新しい天と地について、語られています。そこでは、若くして死ぬ人がいないと言います。また、狼と小羊が共に草を食べる、蛇は塵を食べ物とし、どこにも人間に危害を与えるようなものがないことを語っています。マルコ16:17、18を文字通りに捉えるなら、ある意味怖いことでもあります。手で蛇をつかみたいですか?毒を飲んで死なないか、確かめてみたいですか?そうするべきではない事は明らかです。それではこの節は何を意味するでしょうか?それは、復活を信じるクリスチャン、復活の証人、復活したイエス様が内におられるクリスチャンの特権と義務について語られているということです。イエス様の復活は、新天新地で現れる永遠の体、栄光の体が地上に前もって現れた姿です。イエス様の復活の体は、いずれ、私達がこの世の終わりに新しい天と地が現れる時、私達も死からよみがえり、新しい体を身にまとうその体を表しています。イエス様は十字架で死んだ後、三日後に新しい天と地がどんなものであるのかを、ご自分の体を通して人々に表しました。もちろん、復活されたイエス様の体は、毒を飲んでも害を受けず、百歳を超えるどころか、永遠に死なない肉体になりました。その体には老いも病も死もありません。私達クリスチャンはもちろん、罪深い世界に生きています。そして私達の体も、未だに弱く、罪深いところが数多くあります。しかし、私達の内には、復活されたキリストの霊である聖霊様がおられることを信じましょう。そのお方の故に、私達は聖霊様と共に歩みながら、この罪深い世界に、新しい天と地を少しでも再現することができます。

天の都、新エルサレム



私達が福音を述べ伝えるということは、ただ単に言葉でイエス・キリストを伝えるだけに留まるものではありません。それは、天国の品性、天国がどんなものであるかを、この罪深い社会で実現することを意味します。完全な姿はこの世の終わりに現れるでしょう。それはどんな形で来るのでしょうか?天国という神の都、新しいエルサレムは天から地に降って来ます。

黙示録21:1わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。21:2更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。

しかし、私達は来るべき神の国がどんなものであるか、イエス様を通して知っています。イエス様が来られた事は、「神の国」が来たことを意味するからです。私達の遣わされる全ての場所で、本来あるべき神の国の姿が回復されるように、(愛、正義、公平、教育、憐れみ、)仕事をし、勉強し、福音を伝える私達になりましょう。

8婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。 9〔イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。 10マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。 11しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。 12その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。13この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。 14その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。



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