東京リビングストーン教会水曜礼拝2017.3.8

聖書本文:マルコによる福音書16:1-20

主題:イエス様の復活と私達の使命



こんばんは、今日でマルコによる福音書の御言葉が終わりになります。最後は復活の箇所でありますが、イエスの復活と私達の使命という主題で御言葉を分かち合いたいと思います。
イエス様の復活が大切なのは何故でしょうか?イエス様は3年半の公の生涯の中で様々な形でご自分の神としての品性を表しました。例えば、イエスは様々な病人を癒しました。水の上を歩き、嵐を静めました。また悪霊を追い出し、パンを五千人分に増やして食べさせました。全てイエス様が神の子であることの表れであります。それらは、弟子たちがイエス様の神性を学ぶためのレッスンであり、そのあらゆるプロセスの最後の一押しが復活であるということです。イエス様は弟子達が個人的で、内向きな信仰者として生きる為に3年半生活を共にして、ご自分の神性を表されたのではありません。イエス様が父なる神から遣わされたように、また弟子達をも遣わすために3年半共に生活しました。人々を派遣するのは簡単な事でしょうか?そうではありません。ある人は会社で別の部署に派遣された事があるでしょう。私も以前は山梨に派遣されました。派遣される為にはそれ相応の準備が必要です。弟子達は地の果てまで遣わされる為の準備が必要でした。その為には、実は臆病で、不安に包まれている弟子たちに絶対的な確信を与える必要がありました。それゆえに、復活は、弟子達の背中を押す最後の一押しです。と同時に、復活は、私達クリスチャンの背中を押す最後の一押しでもあります。私達はクリスチャンとして生活しながら、時に日本というクリスチャン的ではない世界の中で不安や恐れに包まれる事があります。そのような時に、私達はイエスの復活の出来事をもう一度思い起こし、それを通して確信に満たされる時、私達は再び世の中に大胆に遣わされることができると信じます。
そういう点で、私達が神の使命を大胆に行う為には、復活という出来事に対する確信が必要です。

復活はなぜキリスト教信仰において大切でしょうか?それは、復活が歴史的な事実だからです。キリスト教信仰は事実に基づく信仰であります。CSルイスはこのように言いました。“キリスト教があなたの考えに近いという理由で信じないで下さい。キリスト教があなたの人生に役に立つという理由で信じないでください。キリスト教があなたを幸せにするという理由で信じないでください。ただキリスト教が変わらない事実であるという理由で、キリストを信じて下さい。”どういう意味でしょうか?多くの宗教が私達にアピールするものがあると思います。この思想はあなたの生き方に当てはまると思います。この信仰は必ずあなたの人生に役に立つし、これを信じれば成功できます。これを信じればあなたは幸せになります。もちろん、それもあるでしょう。しかし、キリスト教は歴史的な事実性を土台としています。

復活という歴史的事実



初代教会の使徒たちのメッセージを聞いても、分かると思います。弟子たちによる最初の公のメッセージは使徒言行録2章でした。

使徒2:32神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。

使徒2:36だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」

ペテロのメッセージのポイントはこの二つです。ペテロのメッセージには教えもないし、倫理もないです。ただキリストの十字架と復活という事実のみを語っています。ペテロはどのようにして復活の証人となったのでしょうか?まず、私達が考えるべきことは、イエスの埋葬された墓が空であったということです。

16:1安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。 2そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。 3彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。 4ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。 5墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。 6若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。 7さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」

1節~7節は、安息日の後、イエスが埋葬された墓に行くマリアを始めとする女性たちの姿を見ることができます。彼女たちは「だれが墓の入り口の石を転がしてくれるのか」を心配していました。それは、ローマ兵士たちが、死体を盗まれないために厳重に石で封印したからです。しかし、着いてみると既に大きな石はわきへ転がしてありました。既に墓は空であり、イエスはそこにはいませんでした。天使が現れ、先にガリラヤへ行かれたと言いました。ここで、私達が見逃してはいけない点があります。墓はなぜわきへ転がされたのでしょうか?もちろん、イエスが外に出るためです。本当にそうでしょうか?
今日の本文14節を見て下さい。弟子達が食事をしている時、イエスが突然現れました。実はヨハネによる福音書によれば、家の扉には皆カギをかけていたのに、突然イエスが弟子達の真ん中に現れたと書いてあります。彼らは未だにユダヤ人による逮捕を恐れていて、家の扉を完全に閉めていました。しかし、壁をすり抜けるようにしてイエスは現れたのです。12節にも二人の弟子が田舎の方へ歩いていく途中、イエスが姿を現しました。これはルカによる福音書24章にあるエマオに行く途上での出来事です。最初二人の弟子達はイエスだと気づきませんでした。しかし、二人がイエスだと気づいた瞬間、イエスの体は消えたのです。

墓は空であった。


復活されたイエスの体は、物理的な空間に囚われない体になったと言えるでしょう。それゆえに、まるで壁を通り抜けるようにして、弟子達の前に現れました。

そこで、考えるべきことは、なぜ石はわきへ転がされたのか?ということです。それは、イエスが墓の外に出るためではありません。そうではなく、逆に、弟子達を墓の中へ入れるためでした。イエスが復活し、もはや墓には誰もいないということを、弟子たちに見せて、確認させて、復活を確信させるためでありました。

イエスはもちろん、石を転がさないまま外に出て、弟子たちに現れる事もできたのです。しかし、もしそうならば、イエスの反対者たちはいつまでも、「墓の石はそのままだ、その中にはイエスの死んだ体があるはずだ」と主張したでしょう。

ポール・アルサウスという学者は、もし、墓が空であるという事が事実でないならば、復活のメッセージはエルサレムにおいて、一日、いや一時間も経たない内に消えてしまっただろう。と語ります。事実、弟子達はエルサレムから遠く離れた田舎でイエスの復活を宣言したのではありません。まさにイエスが殺され、埋葬された墓があるエルサレムで復活のメッセージを語りました。だからこそ、墓が空でないならば、復活のメッセージは簡単に否定されたでしょう。

また、マルコ15章を見てみれば、アリマタヤのヨセフがイエスの墓を引き取って、墓に埋葬するようピラトに頼む箇所があります。アリマタヤのヨセフはユダヤ人議会のサンヘドリンのメンバーでした。このエリート階級に属する人々は人々から余りにも良く知られていたので、アリマタヤのヨセフがイエスを埋葬したという作り話を作り上げるのは不可能でした。もしそれが事実ではないならば、クリスチャンは嘘つき、詐欺師であるということが簡単に広まったでしょう。もしヨセフがイエスを埋葬したのが事実ではないなら、復活のメッセージを広めることはできなかったはずです。つまり、アリマタヤのヨセフはあらゆる人々に知られることを覚悟して、イエスの遺体を埋葬したということです。

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