東京リビングストーン教会講義
主題 美意識

(Beauty)
~日本人は美を追求し、美を楽しんでいる~

美を追求する日本人の探究心
日本庭園での繊細な美的表現
茶道、華道、盆栽などに表された日本独特の美意識
キャラクター弁当を作るお母さん達、日本食における美
サービスやもてなしに対する独自の美学

フジムラは、日本人の美を追求する精神の中に、潜在的に神を求める心を見ている。なぜなら、美は神ご自身を映し出すものだからである。神は“美しいお方”である。

日本の繊細な美学は、ある意味、全ての人に与えられる神の一般恩恵として、フジムラの芸術性に大きな影響を与えた。

芸術家と神の品性
神がなさるように、芸術家は作品の中に自分自身を宿らせる。それはどこにでもあるが、どこにも見ることはできない。(ギュスタフ・フロベール:フランスの作家)
フジムラは、日本の社会、文化の中にあるキリスト教信仰、神を求める心を、まるで壊れた陶器の破片を集める考古学者のように探し求めた。それは秘められていて、曖昧なものである。

日本の美学の中に隠されれた「何か」
日本にはキリストが隠された文化がある、それは木の枠に囲まれた黒ずんだ踏み絵のように、消し去ることができない苦難の歴史から浮かび上がっている。

江戸時代が日本からクリスチャンを追い出すことを成功したように見える一方で、予期しない結果が生まれた。それは、彼らがキリスト教を追放する過程で、彼らはキリスト信仰の足跡を造り出した。それは、日本文化における“影の領域”である。それは、内に秘められた、か弱い、そして明白に語られないキリスト教が日本文化における“隠された現実”になったのではないか?それは長い間抑圧された文化的な価値が、後年になって表に出てきたことではないか?

日本画におけるスタイルも同様なことが言える。鉱物は長い間をかけて変色する。銀は炭のような黒色に変色し、銅は参加して緑色になる。
内に秘められた思い、両義性、そして美意識、これらの三つの性質はフジムラの絵画に現れている。それは、見る者全てが理解できる訳ではない。しかし、それは確かに現れていて、歴史という伝統に根ざしている。


日本は本当に宣教の沼地なのか?


多くの日本に来た宣教師が、遠藤が言うように、「日本は宣教の沼地」であるということに同意している。沼地ではいくら植物を植えても、腐って育たない。

他のアジアの国々、韓国、中国、フィリピンは急速なキリスト教の成長を遂げているが、日本の平均の教会礼拝人数は約30人である。

西洋におけるあらゆる要素を取り込んで来た日本の文化(政治、法律、経済、ビジネス)は、なぜかキリスト教信仰だけを積極的に取り入れることがなかった。多くの日本人は新約聖書に示される良き人の品性を現しているのに、なぜそれほどクリスチャンが多くはないのか?

ローマ帝国は数多くの殉教者を生みだし、結果として福音化された。
日本においても、多くの殉教者の血が流れ、長い年月をかけてキリスト教は弾圧された。
しかし、未だに多くの日本人はイエス・キリストの福音を知らない。なぜ?

いつの時代においても、栄光ある殉教者の陰に、苦しみの中で背教を迫られた人がいた。
日本においても、栄光ある殉教者と共に、踏み絵を踏んだ人々がいた。
私達は過去の歴史における背教者たちを臆病者と断罪することができるか?

イエスの弟子達はどうだったか?
イエスの弟子達の劇的な変化は、彼らがイエスを裏切ったにも関わらず、なおイエスに愛されていることを悟った時に起きた。悪と定められることに新しいものはない。悪だと定められたにも関わらず、なお愛して下さるお方は、全く新しく、劇的である。(ヨハネ21章)

遠藤周作の「沈黙」は踏み絵を踏んだ背教した宣教師の物語であった為、当時のカトリック教会から激しく非難された。しかし、私達は初代教会もまた、ご自分の主を裏切った人々により建てられたことを忘れていないだろうか?

イエスが最も助けを必要としているであろう苦難の時に、弟子達は皆、暗闇の中に逃げ出した。最も勇敢なペテロでさえ、イエスを呪いながら、三回否定した。全ての弟子達は、裏切り者であった。

遠藤周作の「沈黙」は失敗と恥の経験に基づいて書かれている、なぜなら、この経験こそは、人間の人生にいつまでも残る忘れ難い傷跡になるからである。

イエスの最も驚くべき特質は、ご自身の変わらない愛である、それはご自身を裏切った者にさえも注がれた愛である。「沈黙」において踏み絵を踏んだ二人の宣教師につまづいた人々に対して、遠藤は二人の偉大な使徒を示した。それはイエスを三度否定したペテロと、最初のキリスト教迫害を指導したパウロである。

聖書に流れる一つのテーマ
事実、聖書全体は「裏切りの物語」と見る事ができるのではないか?それはアダムの神への反逆から始まり、歴史を通してイスラエル民族の背信があり、ご自分の民の救い主として来られたイエスを十字架に付けることで頂点に達する。しかし、奇妙なことに、最も残酷で、汚れた十字架の処刑は、全てのクリスチャンにとっての最も美しく、聖い神の愛の象徴へと変えられた。それは偉大な逆転劇である。
十字架に向けて、「内に秘められた思い」、「両義性」そして不可思議な「美」は収束していく。
十字架のメッセージは「秘められている」
十字架は神の「愛」と「正義」の矛盾とも思える完全な調和
最も汚れた、呪いと憎悪の「十字架」は 最も神聖で、美しい愛の「十字架」になった。

あなたはイエスを裏切らなかったか?
最初の弟子たちに始まり、歴史を通じて、私達一人一人に至るまで、全てのクリスチャンは、自分自身の中に「裏切り」の感情があることを知っている。あなたは今までの信仰生活で、イエスを一度も裏切らなかったと言えるだろうか?
私達こそが、実は生活のあらゆる現場において、大なり小なり、私達自身の「踏み絵」を踏んでいるのではないだろうか?その時に、私達にとってのただ一つの希望は、裏切られた救い主の、私達に向けられた赦しの恵みだけである。
フジムラが「沈黙と美」について広島市立大学で講演を行った時、ある教授は立ちあがりこのように語った。“踏み絵こそ、私が今まで見た中で一番美しいキリストの肖像ではないだろうか”