東京リビングストーン教会講義

主題 沈黙と美



苦しみから生まれた隠された信仰
マコト・フジムラ
Silence and Beauty
Hidden Faith Born of Suffering
By Makoto Fujimura,

殉教者と背教者
クリスチャンの殉教者はいつもニュースに取り上げられる。
20世紀は過去最も多くの殉教者が生まれた時代であった。

教父テルトゥリアヌス“殉教者の血は教会の種である。”
歴史上、数多くのクリスチャンの苦難の中で、教会が成長してきた。

しかし、信仰を捨てたクリスチャンのことを誰が口にするだろうか?(ローマ帝国、ナチス・ドイツ、ソビエト、中国共産党)彼らはそこで公に信仰を捨てるか、沈黙を守るか決めなければならなかった。

江戸時代のキリシタンの葛藤と決断
16世紀、17世紀に起きた戦国時代~江戸時代初期のキリスト教迫害はどうだったか?
1549年にイエズス会のフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸し、日本にキリスト教信仰(カトリック)がもたらされた。教会は急速に成長し、一世代の内に30万人のキリシタンが生まれた。

ザビエルは“日本は東洋において、最もキリスト教に適した国である”と報告した。

しかし、西洋文明、キリスト教思想の影響を恐れた日本の将軍達が、イエズス会宣教師を追放し、全ての日本人キリシタンが信仰を否定して、仏教の寺に登録するように要求した。1597年には、豊臣秀吉の命令により26人のキリシタン(6名の宣教師、20人の日本人キリシタン(3名の子供達を含む))が逮捕され、京都から長崎まで連行され、十字架に掛けられて殉教の死を遂げる。

5人組制度
互いがキリシタンかどうか、お互いの生活を常に監視しあう。隣人の意見と行動を気にする。

踏み絵制度
どのようにして日本の支配者は日本のキリスト教徒が力を持つ事を防いだか。
日本人キリシタンが自ら死を選ぶことを権力者達は恐れた。
なぜなら、日本の文化においては自殺は名誉ある死であり、殉教者が多く生まれると、日本人キリシタンの名誉と尊敬を高めるだけだと考えた。

しかし、日本人にとって最も忠誠を誓う人物を裏切ることは、面目を失うことであり、不名誉なことであった。
ゆえに、権力者はキリシタン達が公の場で“踏み絵”を踏むことで信仰を否定することを強制した。それは最も敬う対象であるキリストを踏みにじることを意味する。しかもキリシタンはそれを一度だけでなく、毎年の正月毎に踏み絵を踏むことで、信仰を否定しなければならなかった。

踏み絵を踏んだキリシタンは、“背教者”と認められて自由にされた。踏み絵を拒んだ人々は様々な方法で処刑された。

遠藤周作の「沈黙」のテーマ
もし、私がその場にいたら、踏み絵を踏んだだろうか?
彼らは背教した時にどう感じたのか?彼らは何者だったのか?
歴史におけるカトリック教会の記録では、偉大な殉教を遂げた人々しか記録されておらず、信仰を捨てた臆病者の記録はない。背教者は2度、断罪されることになった。最初は苦難の時の神の沈黙を通して、2度目は彼らに対して沈黙した歴史を通して。


秘められた思い


フジムラマコトの芸術家として、クリスチャンとしてのアイデンティティーと葛藤

クリスチャンとしての信仰を持つ芸術家としての葛藤
NYの多くの批評家達は、あなたがもし信仰を公に告白しなければ、もっと多くのキャリアを得ることができたはずなのに。芸術家として最もしてはいけないことは、自分のキリストに対する信仰が、この作品に影響を与えたと公言することである。現代においては、逸脱した、冷笑的で、捉えどころがない作品こそが、“シリアス”な作品だと受け止められる。
芸術家として、差し出された「踏み絵」がある。私達の毎日の生活においても、それぞれの信仰者の立場において「踏み絵」があるのではないか?

フジムラ・マコトは自らの作品の中で、遠藤周作の作品と同様に、日本人の3つの品性を明らかにしようとする。それは、
「内に秘められた思い」「両義性」そして「美意識」である。

1. 内に秘めた思い(Hiddenness)

過去の歴史におけるキリスト教弾圧により、日本人は自らの最も大切にしている思想や感情を内に秘めることを学んだ。日本人は「本音」と「建前」の違いを知っている。外側に対しては“仮面をかぶり”、内にある思いは秘めている。日本人は何を考えているのか、よく分からないという疑問。

5人組制度により、互いを常に意識しながら、隣人に迷惑をかけない為に常に、相手と同じようにしなければならないという圧力⇒個人の喪失、否定的な共同体意識

遠藤周作の「沈黙」は、恥と拒絶の感情が秘められた内なる自己、そして平均的な日本人はそれぞれの社会生活において、適切に行動するために仮面を被らなければならないという日本社会の性質を明らかにしている。日本には『家庭内離婚』という言葉がある。

「旅の恥はかき捨て」(内なる共同体とそれ以外の領域で異なる振る舞いをする。共同体の中で抑圧された感情を共同体の外で吐き出す)

アメリカは個人主義の国として知られているが、彼らなりの文化に対する適応を迫られている。流行や消費社会、教育や仕事における成功に駆り立てられる、そして心の内には恥ずべき秘密を隠すようになる。

背教者たちは公には踏み絵を踏んだが、心の内面では何を思っただろうか?
彼らの「建て前」と「本音」は何だったのだろうか?
それは背教したキリシタンだけでなく、私達全てに関わることである。
私達は、私達の為に死んで下さった主なる神を裏切ってしまったという思いをどう取り扱うべきか?(家庭、職場、学校での生活、言葉、内面の思いにおいて)

両義性(Ambiguity)~あいまいさと矛盾~


日本人の中に流れる極端なまでの両義性
日本に来る多くの旅行客は日本人の礼儀正しさと親切さに感動する。
世界最高レベルの治安の良さ、交番に届けられる紛失物
レストラン、ホテルなどサービス産業の最高のおもてなし
雑然とした都会の交通渋滞の中でも、車のクラクションを鳴らす音はほとんど聞かない
学校教育、家庭教育から徹底される他者との協調性、チームワーク

度々、世間を騒がせる残酷なニュース、陰湿な子供のいじめ事件
家庭内の不和、不倫、家庭内暴力、育児放棄
関係のある人々には優しい、しかし一度離れると極端に冷淡
うつ病を始めとする、あまりに多くの心の病を抱える人々

どちらが本当の性質なのか?
矛盾しているように見える二重性
東京という町の特徴:競争的協調性(Competitive Conformity)

日本人の平静さと、荒々しさ
日本は歴史上、原子爆弾の2度の被害を受けた唯一の国である。戦争、津波、地震、原子力発電所のメルトダウン、バブル崩壊。日本はこれらの災害に対して心の平静をもって対応せざるを得なかった。2011年の3.11の津波被害の後、生存者は食事を受け取るために体育館に整然と並んでいた。

このような社会と共同体に対して適応するための圧力がこのような冷静沈着な対応を生んだ。日本人は暴動を起こしたり、不作法に振る舞うことであえて、所属する共同体を辱めたりはしない。しかし、内側に抑圧された「痛み」が消え去ることはない。それはうつ病や様々な中毒、家庭内暴力、そして非常に高い自殺率にも表れている。

何が私達を自由にするのか?
ヨハネによる福音書8:32“あなた方は真理を知り、真理はあなた方を自由にする”
アメリカの作家フラナリー・オコナーは次のように付け加えた。
“あなた方は真理を知り、真理はあなた方を奇異にする”
日本において、そのような「奇異さ」は社会全体に対する脅威と受け取られる。しかし、その「奇異さ」の中に自分自身に対する誠実さと内なる健康、自己否定の束縛から解放する道がある。

フジムラは自らの人生における光と影を明らかに告白している。日系人としての日本と米国の間で揺れ動くアイデンティティー、その中で感じた落胆や失望、自殺願望。
遠藤周作の「沈黙」はキリスト教迫害を通して受けた日本社会の傷ついた魂と抑圧された感情を作品を通して明らかにした。キリスト教禁教時代を通して生まれた美意識と死、親切さと残酷さ、名誉と恥、放縦と禁欲、儀礼と無作法の両義性の中での葛藤。


関連リンク

・更にメッセージが読みたい方はこちら
・リビングストーン教会について知りたい方はこちら