リビングストーン教会主日礼拝2017.2.5

聖書本文:使徒言行録28章

主題:バベルの裁きを逆転して



こんにちは、今日はいよいよ使徒言行録の講解説教の最後の回であります。実に2015年の5月から少しずつ御言葉を分かち合って来ましたが、イエスの使徒たちがどのようにして福音を地の果てまで伝えようとしたのか、それを追い続けることができて改めて感謝の気持ちがあります。
使徒言行録の主題は何でしょうか?それを一節にまとめるなら、1章8節になります。

使徒1:8あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」

これが使徒言行録全体の流れを意味するものであり、今の世界の歴史にもつながるものです。福音はどこから始まったのでしょうか?それはイエス様を通して始まりました。特に福音のメッセージは、イエス・キリストの十字架と復活を通して明確に示されました。使徒パウロはその事を第一コリントの手紙で語ります。

Iコリント15:3最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、 15:4葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、15:5ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。

全世界に述べ伝えられるべき福音はナザレのイエスが聖書に書いてある通り十字架で死なれ、復活された事を通して、その目撃証人である12弟子達に委ねられました。彼らはイエスの十字架の苦難に際して、恐れて逃げ出した臆病者たちでした。しかし、イエスが昇天された約1週間後のペンテコステの時、約束通りに聖霊が下られた時に、彼らは力を得て、福音を伝える証人としての全ての力と恵みを頂いたのです。
第二テモテの手紙1章7節でパウロはテモテにこう言いました。

二テモテ1:7神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。

ペンテコステの時、120人の人々に聖霊が降られた時、多くの事が起こりました。まず、彼らは聖霊により力を頂き、エルサレムから始まり、ユダヤとサマリアの全土、地の果てに至るまでの証人となる力を得ました。更に、彼らは多くの国々の言語で神の言葉を語るようになりました。

使徒2:4すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

恐らく使徒達と共に集まっていた120人の人々は、大した学問も学んでいない社会的に低い身分の人達であったと思います。ここで、彼らが別の国の言葉を学んでもいないのに話したことは不思議なことです。しかし、これを単に異言の奇跡、神秘的な出来事として終わらせてはなりません。弟子たちが多くの国々の言葉で語り出したということ自体が、新しい時代の始まりを意味します。それでは古い時代はいつから始まったのでしょうか?それは創世記11章、バベルの塔の出来事までさかのぼります。

創世記11:5主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、 11:6言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。11:7我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」11:8 主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。

バベルの塔の出来事まで、人々は皆、同じ言葉を話していたとあります。全ての人は話が通じたのです。しかし、バベルの塔の出来事は、神があらゆる人々をそれぞれの言語毎に分裂させ、離れ離れになさいました。この時代から、民族の断絶、文化の断絶が始まりました。今まで一つであった人類は言葉や文化、肌の色により区別されるようになり、それぞれの民族はそれぞれの宗教を生みだし、それぞれ自分たちが造り出した偶像の神を拝むようになっていったのです。エジプト人はエジプト人の神を信じるようになり、バビロン人はバビロン人の神を信じるようになっていったでしょう。世界はどんどん分かれて行きました。言葉の通じない世界、お互いを理解できない世界が始まりました。

バベルの塔の出来事は言葉がバラバラになるというものでした。

私は最初、この神の裁きは不思議だと思いました。どうして、神はバベルの塔を天からの火で焼きつくさないのか?どうして、神はバベルの塔を大地震で粉々に崩さなかったのだろうか?ソドムとゴモラを天の火で焼くように、またノアの大洪水のように、火や水や、大地震でバベルの塔を崩せばよかったのにと思いました。神は創世記11章では、神は地震も洪水も天からの火も降らしませんでした。ただ、言葉が通じないようにさせたのです。これが裁き?なぜ?と最初は思いました。今の世界を見て下さい。言葉が通じないのは当たり前の事です。全ての民族の言葉が通じないので、語学学校がお金がもうかるのではないでしょうか?日本語学校、英会話スクール、語学留学、あらゆる国々の言葉が通じないのは、当然のことです。私達はそれを裁きだと思いません。しかし、神は明確な裁きとして、全ての民族の言葉をバラバラにしました。なぜでしょうか?神の言葉が聞こえなくなるためです。

最も大きな裁きは何でしょうか?天からの火や、大洪水や大地震ではありません。神の言葉を聞くことが出来ない事、これこそが最も大きな裁きです。最も大きな暗闇は、神の言葉を聞くことができない、霊的な暗闇です。神はバベルの塔以来、神は選ばれた民族以外、神の言葉を聞けなくなりました。つまり、神を知ることができないようになったのです。霊的な暗黒時代です。真の天地の創造主、神の言葉を聞けなくなったので、本当の神が誰なのか、分からなくなりました。それゆえに、彼らは彼らなりの自分勝手な偶像を造り、虚しくなったのです。

ただ神が創世記12章で選ばれたアブラハムとその子孫だけに、神が誰であるかが明かされるようになったのです。それがいわゆるユダヤ人です。それ以外の民族は、神の救いから遠く離れたところにありました。

しかし、全てはイエス様がこの世に来られた事を通して、そして十字架で死なれ、復活し、天に昇られたことで、世界は元通りになる道が開かれました。バベルの塔以前の、全ての民族が神の言葉を聞くことができる時代です。それがついに、現実のものになったのが、使徒言行録2章でした。

民族主義を乗り越えて


使徒言行録の実際的な始まりは2章のペンテコステです。それは新約時代特有の、初代教会の始まりでもありました。そして、ペンテコステは、言語がバラバラになり、言葉が通じなくなり、神の言葉を理解できなくなった人々が、神の言葉を自分の言葉で聞き、理解し、神を賛美するようになること。神の言葉と福音を通した救いは、決してユダヤ人だけでなく、全ての民族に向けられたものであることを示されたのがペンテコステの出来事です。そのようにして、福音はエルサレムから始まり、ユダヤとサマリアの全土で、そして地の果てに至るまで広がっていくのを私達は見て来ました。

私達は使徒言行録を読みながら、神の救いは既にユダヤ人のみならず、サマリア人、ギリシャ人、ローマ人にまで及んでいるのを見て来ました。使徒言行録は、バベルの塔を通して始まった神から離れていくあらゆる民族、人々が、福音を通して再び一つになっていくプロセスです。バベルの塔の出来事の逆転現象が初代教会の宣教を通して起こり始めています。

そして28章でいよいよ、当時の世界の中心である首都ローマにパウロがたどりついたのを見る事ができます。ただ、それは福音がパウロと共に伝わったことではありません。既にパウロがローマに行く前に、そこには福音が伝えられていました。公式的な宣教師は派遣されなかったでしょう。しかし、そこにはローマの教会があり、クリスチャン達がいたのです。また、そこにはローマで主イエスの復活の証人として生きるクリスチャン達の存在を不思議に思うユダヤ人たちもまた存在していました。それが今日の本文でパウロと対話をするローマのユダヤ人たちです。

17三日の後、パウロはおもだったユダヤ人たちを招いた。彼らが集まって来たとき、こう言った。「兄弟たち、わたしは、民に対しても先祖の慣習に対しても、背くようなことは何一つしていないのに、エルサレムで囚人としてローマ人の手に引き渡されてしまいました。18ローマ人はわたしを取り調べたのですが、死刑に相当する理由が何も無かったので、釈放しようと思ったのです。19しかし、ユダヤ人たちが反対したので、わたしは皇帝に上訴せざるをえませんでした。これは、決して同胞を告発するためではありません。 20だからこそ、お会いして話し合いたいと、あなたがたにお願いしたのです。イスラエルが希望していることのために、わたしはこのように鎖でつながれているのです。」

パウロはローマに行って、まずユダヤ人たちを招いたのです。パウロは自らを異邦人の使徒と呼びました。しかし、同胞であるユダヤ人を招きました。そして自らの存在が決して非難されるような者ではないことを訴えています。パウロはもちろん、異邦人に福音を伝える為に召された人でした。しかし、彼は決して自分のユダヤ人としてのアイデンティティーを失っていません。そして彼が招いたのはギリシャ人でもローマ人でもなく、ユダヤ人でした。彼らにまずイエス様を伝えようとしたのです。ここで、私達はクリスチャンとして、神の民として持つべき意識について考えて見る必要があります。

ローマ9:2わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。 9:3わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。 9:4彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。

ローマ信徒への手紙9章において、パウロは同族であるユダヤ人の救いに対する切なる思いについて語ります。パウロはクリスチャンになりました。彼の本来のユダヤ人としての名前はサウロです。しかし、ギリシャ的な読み方であるパウロを名乗るようになりました。彼はクリスチャン、天国の民になりましたが、彼のルーツはユダヤ人で、ユダヤ人を愛してその救いの為の重荷を背負っていました。ローマについても未だにそうでした。

クリスチャンは、自らのアイデンティティーを考える時に、気を付けなければならない二つの極端な考えがあります。それは民族主義と個人主義です。

まず、クリスチャンは神の民とされた者として、民族や文化を乗り越えます。主の中で全ての人は神に型取って作られた存在であり、全てのクリスチャンは等しく神の子供、兄弟姉妹だからです。パウロは生まれながらのユダヤ人であり、ユダヤ人の中のユダヤ人でした。

フィリピ3:5わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、

とあります。しかし、パウロはキリストにより神の子としての新しいアイデンティティーが与えられたので、ユダヤ人としての一切のプライドを捨てて、当時のユダヤ人が犬のように差別していた、ギリシャ人やローマ人の使徒として自らの殻を破るようになったのです。ここに、パウロのクリスチャン、神の子としての新しいアイデンティティーがあります。

神は世を愛された


クリスチャンは一人一人神の子とされ、国家や民族を乗り越えているので、自分達の所属する国家や民族について考えるべきではないのでしょうか?それもまた違います。クリスチャンは民族主義にも偏ってはならず、また個人主義にも偏ってはなりません。クリスチャンが一番良く親しんでいる御言葉はヨハネによる福音書3:16でしょう。

ヨハネ3:16神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

ここで、神は『世を愛された』と書いてあります。アメリカ人のクリスチャンはこう書いてあるのを願ったかもしれません。神は、その独り子をお与えになったほどに、私達「一人一人」を愛された。ある意味、アメリカ人の信仰は個人主義的です。しかし、聖書にはそう書いてありません。もちろん、神は、その独り子をお与えになったほど、我が民族を愛されたとも書いてありません。神は「世を愛された」と書いてあります。

ここで、昔、質問されたことがあります。神は世を愛されました。

あなたにとっての「世」とはどれ位の広さを持っていますか?

というものです。私にとっての世とは、私だけでしょうか?そういうクリスチャンもいるかもしれません。もちろん、イエス様を個人的に信じています。教会で礼拝も捧げます。しかし、神が愛された世とは、自分自身に留まります。ある人にとっての世とは、自分の家族までかもしれません。自分の妻、子供、そこで終わります。ある人は、自分の教会まで広がるかもしれません。しかし、キリストの体である他の教会には関心がありません。ある人は、自分の民族、国家にまで広がるかもしれません。しかし、他の国家や民族が今直面している苦しみや悩みには関心がありません。

神は世を愛されました。全世界です。

神は、選ばれた民を愛されたとか、クリスチャンを愛されたとは書いてありません。そこには神を信じる人も信じない人も含まれます。さらには、人間だけでななく、神が造られた全ての創造物まで含まれます。なぜなら、ヨハネ3:16に書かれた「世」のギリシャ語はκόσμον (kosmon) です。つまりこれは英語の「cosmos」(宇宙)です。このギリシャ語の意味は、「宇宙、全世界、秩序ある完全なシステム」を意味します。神は世を愛され、使徒パウロも世を愛そうとして異邦人の使徒になりました。さらにこのκόσμον (kosmon) という単語はマルコ16:15にも使われています。

マルコ16:15それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。 

このようにして、クリスチャンは、一人一人が神の子として個人的にキリストにつながって生きています。しかし、神は世であるコスモスを愛されたように、神の子であるクリスチャンも世を愛することを主が願われています。パウロはそのようにして、異邦人の使徒としてギリシャ人にもローマ人にも神の愛を伝えつつ、決して個人主義に陥ることなく、同族であるユダヤ人の救いのために神の言葉を語りました。そのパウロの姿勢が、そのまま私達の生きる姿勢になること、ある人は日本人でありながら、韓国人でありながら、神の子、天国の民になりました。しかし、神は私達が一人一人神との間の個人的な関係で終わることを願われてはいません。神が世を愛されたように、私もまた一人の神の子として、自分の国家と民族を愛し、祈り、神の愛を伝える者になりましょう。



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