リビングストーン教会水曜礼拝2017.1.25

聖書本文:マルコによる福音書15:1-15
主題:神の沈黙、ピラトの葛藤、バラバの救い

15:1夜が明けるとすぐ、祭司長たちは、長老や律法学者たちと共に、つまり最高法院全体で相談した後、イエスを縛って引いて行き、ピラトに渡した。2ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と答えられた。 3そこで祭司長たちが、いろいろとイエスを訴えた。4ピラトが再び尋問した。「何も答えないのか。彼らがあのようにお前を訴えているのに。」 5しかし、イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った。 6ところで、祭りの度ごとに、ピラトは人々が願い出る囚人を一人釈放していた。 7 さて、暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒たちの中に、バラバという男がいた。8群衆が押しかけて来て、いつものようにしてほしいと要求し始めた。 9そこで、ピラトは、「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と言った。 10祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。 11祭司長たちは、バラバの方を釈放してもらうように群衆を扇動した。 12そこで、ピラトは改めて、「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」と言った。 13群衆はまた叫んだ。「十字架につけろ。」 14ピラトは言った。「いったいどんな悪事を働いたというのか。」群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び立てた。 15 ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。

今日はイエス様がローマ総督のポンテオ・ピラトの前で尋問される場面です。私たちは、前の章で、祭司長たちが、ユダヤ人議会を招集し、イエスを裁判にかけた場面を見ました。自らを神の子、メシアだと名乗り、神を冒涜した罪で死刑に定められました。けれども、彼らは死刑を執行することができません。当時のイスラエルは、ローマ帝国に支配されており、彼らは、死刑を執行する権利を取り上げられていたからです。そこで、その地域のローマの総督であるピラトにイエスを連れ出したのです。

2ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問しました。

祭司長たちの起訴状は、イエスが『ユダヤ人の王』と主張している、というものです。これは、ローマでは、皇帝のみが王であり、自分を王とするものは死刑に処せられるからです。ユダヤ人は、ローマからの独立を切に願っていました。私達は先週のエファタウィークにおいて、新旧約中間時代を学んだんではないでしょうか?そこでは、ユダ・マカバイという人物が当時の支配国であるセレウコス朝シリアに対して独立運動を起こして、その時代は見事シリアから独立を勝ち取り、ユダヤ人国家として独立しました。その後ローマのポンペイウス将軍により、今度はローマ共和国の支配下に入りますが、そこでもユダヤ人の英雄ユダ・マカバイのように、ローマからの独立を試みる集団がときどき現れて、政治犯として捕らえられていました。まさにその人物の一人が、バラバでした。

2イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と答えられた。
ここで、イエスは、ご自分がユダヤ人の王であることを認めておられますが、ピラトの理解しているような王とは違います。
4ピラトが再び尋問した。「何も答えないのか。彼らがあのようにお前を訴えているのに。」 5しかし、イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った。

ここで、ピラトが驚いたのは、被告が何の弁明もしなかったからです。何の弁明もなければ、祭司長たちの訴えがそのまま判決となります。被告であるイエス様が何の弁明もしなければ、そのまま訴え通りに国家反逆罪として死刑判決となります。実は、ピラトは、イエスが無罪であることを知っていましたが、彼自身は、その立場上、イエスを弁明することはできません。ここで大切なことは、イエスは黙っておられたということです。今日の本文でイエス様は数々の祭司長たちの訴えに、群衆たちの「十字架に付けろ」という叫びに対して沈黙しておられました。人間的に考えるならば、イエス様は完全な無実です。刑罰を免れるべき人です。しかし、イエス様は裁判の席で何の弁明をなさらず、訴えられるままに死刑の判決を受けられました。

ピラトの葛藤

6ところで、祭りの度ごとに、ピラトは人々が願い出る囚人を一人釈放していた。 

 この囚人とは、ローマに反抗した政治犯のことです。年に一度の過越の祭りの時に、政治犯を赦免することによって、従属しているユダヤ人をなだめるのを、目的としていました。イエスが無罪であることを知っていたので、ピラトはこの特赦を用いて、イエスを釈放する方向に持っていこうとしています。イエスは、ユダヤ人民衆の人気を集めていたことを聞いていたので、民衆の声からイエスを釈放する声が上がることを期待したのです。そして、その時はまさにローマ帝国に対する独立運動、反逆の罪で死刑の宣告を受けている政治犯がいました。

7たまたま、バラバという者がいて、暴動のとき人殺しをした暴徒たちといっしょに牢にはいっていた。

 この暴徒とは、もちろんローマに反逆、独立するための暴徒です。まさに、祭司長たちが訴えていた罪を、このバラバという人物は犯していました。彼は、十字架刑を受ける予定でした。

8群衆が押しかけて来て、いつものようにしてほしいと要求し始めた。 9そこで、ピラトは、「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と言った。

 ピラトは、祭司長たちが皇帝に忠誠を誓うためにイエスを訴えたのではなく、イエスをねたんでいるからであることに気づいていました。それで、イエスを殺すことを計画しました。したがって、ピラトは、群衆から、「イエスを釈放しろ!」という声が上がることを期待していました。しかし、祭司長たちに先導され、群衆もまたイエスを十字架に付けろと叫ぶようになります。

11祭司長たちは、バラバの方を釈放してもらうように群衆を扇動した。 12そこで、ピラトは改めて、「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」と言った。 13群衆はまた叫んだ。「十字架につけろ。」 14ピラトは言った。「いったいどんな悪事を働いたというのか。」群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び立てた。

ここで、私達はピラトが置かれた立場を想像することができます。彼はローマ総督です。地中海世界全体を支配するローマ帝国のシリア・パレスチナ地方を治める総督がピラトでした。今日でいう県知事のような存在です。しかし、当時、14の属州があったローマ帝国のおいて、シリア属州は非常に人気のない属州でした。なぜなら、ローマ帝国の支配下にあるにも関わらず、ユダヤ人というのは本当に厄介で面倒臭い民族だったからです。

基本的にローマ帝国は多神教で、どんな神でも信仰でも受け入れて認めました。だからこそ、様々な民族性と信仰を持つ他民族の帝国として、ローマ帝国が500年続いたと考えることができます。そのような宗教的、民族的に寛容な帝国の中で、ユダヤ人だけが頑なに唯一の神、自らこそ選ばれた民、ローマの支配に入るのは嫌だと度々暴動を起こしたからです。ゆえに一番面倒な属州であり、そこに派遣されたのがピラトでした。だから彼はトラブルを起こしたくありませんでした。ユダヤ人の暴動が続けて起こるならば、属州の職務を終えた後の出世コースも閉ざされるからです。彼はこれ以上ユダヤ民族に面倒を起こさせたくありませんでした。自分の立場を守りたかったのです。それゆえに、自分自身もイエスに罪がないことを良く分かっていました。

マタイによる福音書を見れば、ピラトの奥さんにまで夢でお告げがあり、イエスに関わらないように警告されました。またイエスを訴える祭司長たちも、実はローマ皇帝を尊敬などしておらず、ただイエスに対するねたみの故に殺そうとしていることを見抜いていました。このように、イエスは正しい方だと認めるいくつもの理由がありながら、ピラトは結局群衆の叫びに押されて、イエスを十字架に付けるようになります。これは、ピラトだけ非難できることではありません。

私達は、人間として、何が正しいかを分かっていたとしても、その正しいことを正しく実行することがどれほど難しいのかということを物語っています。

ピラトは馬鹿な人間ではありません、全て状況を見抜いています。イエスの正しさも知っています。しかし、十字架の判決を下しました。
これは私達にも言えることです。私達もクリスチャンとして、何が正しいかを知っていながら、遣わされる社会で、その通りに実行できないことがどれほど多いかと思います。

特に日本社会は、声には出さなくても、人々の目に見えない圧力があります。クリスチャンとして生きること自体が、世の99パーセントの人々とは違う生き方であるということを意味しています。だからこそ、人々の圧力に流され、また自分自身を守るためにこのような行動をしたピラトを、愚か者だと責めることはできません。毎週の主日ごとに、読み上げる使徒信条の中で、『ポンテオ・ピラトの元に苦しみを受け』というのは、何でしょうか?ただピラトだけを悪者にすることではありません。

私達もまた、ピラトのような卑怯者にいつでもなる可能性があること、ピラトのように、真実よりは、自らの安全を選ぶ可能性がいつでもあること、私達もピラトがしたように、自分の安全や利益を優先して、いつでも私の元でイエスを苦しめることがあるのだということを思い起こす必要があります。これは、ピラトに対する非難ではなく、私達自身に対する警告とチャレンジです。

私達が遣わされる全ての場所で、私たちは、自らが正しいと信じることを、そのまま実行できる力と勇気が与えられるように、祈る私達になりましょう。実にピラトだけではなく、ペテロを始めとする弟子たちも、正しいことが何かを知りながら、イエスから逃げ去りました。しかし、聖霊に満たされた後は、主の望まれることを実行したのです。祈りと共に、聖霊により頼む私達になりましょう。

バラバの自由、私達の自由

イエスの裁判の中で、思いがけず釈放されることになった強盗バラバについて考えてみましょう。

15 ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。

バラバは死刑判決を受け、まさにこの日に十字架で死ぬべき人でした。彼こそまさにローマに対して暴動をおこし、人を殺しました。バラバは人々の間で知られた人物でした。彼が十字架に付けられることを通して、ローマ帝国の反逆すると、このようなひどい死に方をするというアピールをすることができたことでしょう。しかし、群衆はバラバを釈放し、イエスを十字架に付けることを選びます。群衆もそうであり、神がそれを願われました。

バラバはまさに、私達そのものです。人々に流されて、正義を実行できずに救い主を苦しめてしまうピラトも私達であり、そのような罪人であるにも関わらず、イエス様が代わりに死んでくれたことで、解放されたバラバも、まさに私達そのものです。バラバは、死ぬべき存在でした。しかし、イエスがその日、十字架に掛けられたゆえに、命を得ました。

伝説によれば、バラバはその後、イエスの十字架の死を目撃し、まさにイエスの死は私の為であったことを悟り、熱心なクリスチャン、伝道者になったという話があります。バラバはまさに、「イエス様の十字架のゆえに、私の命は救われた」と一番、直接的に語ることができる人物です。

彼は恵みにより救われた罪人でした。そしてそれは、私達も同じです。私達もまた、ただ神の恵みにより、イエスの十字架により救われ、自由にされた罪人です。何の正しさを証明できたわけでもない、何かの行いや儀式により、罪の償いをできたわけでもない、ただそこにイエス様がいて下さったがゆえに自由にされたのが私達です。それを悟る時、毎日、私達が自由に、生きられるのは、ただイエス様のおかげであると確信することができます。

私達は今、自由にイエスを信じ、賛美し、祈り、福音を伝えることができます。誰のおかげでしょうか?ただイエス様のおかげであります。そのことを深く悟るほどに、私達は喜びと感謝があふれるようになります。

御言葉をまとめます。今日の本文を通して、
1.神の沈黙の背後には、神の尊い計画があることを悟りましょう。
2.また、ピラトは、非難の対象ではなく、まさに私達のような弱い罪人そのものであることを悟りながら、日々、正義を実行できるよう神の助けを求めましょう。
3.そして、恵みにより自由にされたバラバは、私達そのものです。その恵みを日々心にとどめながら、イエス様が与えて下さった自由と平安を感謝し、喜び、その恵みを証しする私達になりましょう。

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