リビングストーン教会礼拝説教

主題 無力を通して神の力が現れた


大切なことは、イエス様が全能の神でありながら、自ら無力になられた時に、想像をはるかに超える神の業が成し遂げられたということです。

全能の神は無力な弱い、罪人になることを通して、この世の誰も成し遂げることができない、罪人に対する、救いの業が成し遂げられました。全能の神が、無力になることを通して成し遂げたのです。同じように私達にも希望があります。私達は本来ならば、この世のすべてをコントロールしたいと思います。皆さんもそうでしょう?私もそうです。自分の周りの環境、状況、人間関係、自分の思うとおりにコントロールできたら、どんなにハッピーだろうかと考えます。しかし、アダムはそうしようとして神から離れたのです。イエスはその逆のことを行いました。全てをコントロールできる力を持つお方が、コントロールをあきらめました。結果として神の救いが成し遂げられたのです。ここで私達にも神による大きな希望とチャンスがあります。私達もまた、弱い存在であり、その弱さゆえに、周りの環境、状況をコントロールしたいと思います。

アダムは神を支配しようとしました。そして、みじめな罪人になりました。
それよりも前に、サタンである悪魔は、天使の最高の位にあった時に、神の地位に上り詰めたいと願い、神に反逆しました。それで天から落とされ、惨めな悪魔になりました。この世のすべての原則があります。それは、何かを支配しようとするものは、それによって支配されるようになるということです。事実、多くのものを支配しようとする人こそ、この世でもっとも惨めな人々ではないでしょうか?

この世の独裁者を見て下さい。
その国家のすべてをコントロールしているように見えます。全て自分が中心であるように思えます。しかし、その人の心の中には常に恐れと不安があります。権力が奪われる恐れがあり、裏切りや反乱への不安があります。人を支配するものは、人によって支配されます。お金を支配しようとする人はお金により支配され、お金の奴隷になります。私達がコントロールしようとするものによって、私達は大抵コントロールされているのです。そして、それは逆もまた真です。イエス様は全てのものを支配できる王であり、全能なる神でした。しかし、私達を救うために、全ての支配をあきらめ、自らの生きようとする命の願いさえもあきらめた時、その方は神により復活され、天と地の権能を持つすべての支配者になられました。イエスは死に支配されることを通して、死を支配する者になりました。クリスチャンの生き方がここにあります。

イエス様はたびたび言われました。私のために死ぬ者は生きるだろう、しかし、自分のために生きようとするものは死ぬことになる。
そうです。自分のために生きようとする人は、実は自分のために生きることができません。自己中心に生きるためにコントロールしようとする全てのものにコントロールされて、苦しい人生を生きるのです。しかし、もし、主の御心に従い、私達が自らの環境を、人々をコントロールしたいする思いをあきらめ、主に委ね、自分自身の願いよりも、神の御心に従うことを決心するときに、私達の想像を超えた神の計画が、私達を通して実現することを信じる者になりましょう。

また、今日の本文を通していくつかの希望を見ることができます。
使徒言行録27章1節、2節を見て下さい。『わたしたちは…』パウロは一人ではなかったことを意味します。もちろん、ルカがこの書物を書いているので、ルカは常にパウロと共にいました。チームであったということです。だから互いに祈り合うことができました。教会は「わたしは」ではなく、「わたしたちは」という言葉が仕える共同体であることに感謝します。だからこそ、教会は一人で試練や困難に立ち向かうのではなく、共に力を合わせて立ち向かうことができます。

神が全てを握っておられる


使徒言行録27:24こう言われました。『パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せて下さったのだ。』25ですから、皆さん、元気を出しなさい。わたしは神を信じています。わたしに告げられたことは、そのとおりになります。

私達には与えられた神の言葉、聖書があります。また、神の与えた使命があり、神の約束があるということです。
私は神を信じています。」これがパウロの告白でした。私達にも、神の与えられた素晴らしい約束があり、計画があることに感謝します。それはエレミヤ書29章にあるように、災いの計画ではなく、平和の計画であり、将来と希望を与えるものであることを感謝します。この約束に基づいて、私達は苦難の中でも希望を持ちます。

さらに、今日の本文には聖書に書かれていない後の歴史のことが書いてあります。『パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。』これは神の約束であり、計画です。つまり聖書には書いてはいませんが、パウロは皇帝の前に出頭したのでしょう。そして、福音を述べ伝えたはずです。パウロは皇帝ネロの前に立ちました。キリスト教の最初の迫害者であるネロの前に立ち、福音を伝えましたた。聖書には書かれていないが、神がそう約束したので、必ず実現したはずなのです。

このように、全ての人の運命は、イエスに任されています。
全ての一人一人の魂の行く末、その運命は神の子イエスが握っています。そのイエス様は私達を愛しておられます。世の終わりまで、私達と共におられ、私達を決して見捨てることはないと言われました。だからこそ、私達はコントロール不可能な環境、状況の中においても、主にゆだねる者になりましょう。

彼らは嵐の中で、海の流れに任せざるをえませんでした。人間の力ではコントロールできない状況になりました。その時こそ、私達が神をますます信頼する時です。なぜなら、イエスが自らの力と支配力を全て諦めた時に、救いの御業が成し遂げられたからです。えてして、人間は環境・状況が自分のコントロールの元にあるならば、神を信じないで自分自身を信じようとするものである。人間は自然の力の前で何もできない。人間は無力です。

しかし、無力の中でこそ、偉大な神の働きを期待することができます。だからこそ、全能の神、更には私を愛しておられる神に信頼して、ゆだねる者になりましょう。その時にこそ、私達の歩むすべての人生に喜びと平安があると信じます。今週一週間を歩む全ての兄弟姉妹の上に、たとえそれがコントロールできないような困難な嵐のような出来事であったとしても、主の御手に委ね、主の大いなる救いの働きを期待する私達になりましょう。


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