東京リビングストーン教会礼拝説教
祈りの目的


イエスは父なる神が全能なる神であることを確信していました。
それゆえに、自分に降りかかる苦難をも取り去ることができることを知っていました。しかし、イエスはそれを願いませんでした。

「この杯をわたしから取り除けてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」

それは、自分の願いではなく、神の御心が行われるようにとの祈りでした。ここに私達の祈りとイエスの祈りとの違いがあります。私達は、神の御心が行われるように祈るよりは、自分の願い通りになることを願うことがどれほど多いでしょうか?

多くの人々は、祈りが自分の願いを成就するための手段だと考えます。
ジョージ・ミューラーは五万回の祈りが応えられたことで有名な神の僕です。しかし、私達は五万回応えられたという事ばかりに注目するならば、祈りを自分の目標達成のための手段へと変えてしまうでしょう。

祈りの目的は何でしょうか?
祈りが答えられることが目的ではなく、祈りそのものが目的です。
なぜなら、祈りとは神との豊かな交わりそのものだからです。

私達は、往々にして『祈りが応えられる』『願いが叶う』ということのみに集中することが多いです。

しかし、祈りは全能の神と交わることであり、それ自体が目的であることを悟りましょう。

そうでないならば、クリスチャンの祈りは目的ではなく手段に転落し、神との親しい関係を追い求める信仰生活から、自己実現と目標達成の為に神の全能さを利用しようとする利己的信仰生活に転落します。

そしてそれと同時に、親しき交わりの対象としての神が神(第一の存在)ではなく、全能なる神の力を借りて手に入れようとするもの(富、名誉、人間関係、知識、社会的立場)が、事実上、「自分の神(偶像)」になります。

だからこそ、祈りを手段化することに大きな危険があります。祈りを用いて達成しようとする何かが、主なる神に代わる、「偽りの神」になる恐れがあるからです。イエスは最後まで、その葛藤と祈りの中で戦いました。

イエスは十字架を避けることも願うことができました。それは、罪人ではなく、神の子の立場に留まることです。神の子イエスの栄光、尊厳、安全、力は守られたでしょう。

しかし、イエスはそれらを守ることを願われませんでした。むしろ、全ての人々の救いの為に、それを放棄することを決断しました。神との交わりさえも放棄されることを決断しました。

それは、イエスが放棄した、ご自分の栄光、尊厳、名誉、力が、罪人である私達のものとなるためです。このようなイエスの従順を通して、私達に救いの恵みが与えられたことを感謝しましょう。

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