東京リビングストーン教会木曜礼拝

主題:キリストの従順、人間の不従順


このような苦難を前にして、イエスはそれでも神の御心に従順しようと切なる祈りをささげたのが今日の本文です。この箇所を説明したであろう聖書箇所がヘブライ書5:7にあります。


ヘブライ5:7キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。 5:8キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。 


フィリピ2:8へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。 

 

イエスのゲッセマネの園での祈りは、神に対する完全な従順の決断でした。その従順の決意こそ、本文36節です。


36こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取り除けてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」


ここで、私達はかつて直面した大きな試練において、一人は主の御心に従順し、もう一人は自分の願い通りにしようとした二人の人物を知っています。一人はキリストで、一人はアダムです。


イエスはゲッセマネの園で、人類の究極的な運命を左右する試練(十字架の死を通して救いを成し遂げるかどうか)を前にして、神に従順することを決意しました。


しかし、アダムはエデンの園で、人類の究極的な運命を左右する試練(善悪の木の実を食べるかどうか)を前にして、自分の願い通りに食べ、神に不従順することを決意しました。


アダムは自分の決断が全人類にどれほど深刻な影響をもたらすかを知らないまま、神に不従順しました。それゆえに、アダムの罪の結果、人間には先に述べたように、肉体的な苦しみ(病気、老い、負傷、障害)、精神的な苦しみ(虚無感、不安、恐れ、怒り、憎しみ)、何よりも霊的な苦しみ(罪責感、偶像崇拝)を背負うことになりました。イエスが十字架で背負うことになった3種類の苦しみは、アダムの不従順を通して始まった苦しみでした。


しかしイエスは、第2のアダム、真のアダムとして、自らそれらの苦しみをその身に背負うことを決意しました。そのような従順により、私達のあらゆる不従順の罪が覆われ、キリストの従順を通して私達は救われたことを神に感謝しましょう。



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