高田馬場リビングストーン教会福音セミナー
主題 ルターの土台に立つ


彼らの日々のあゆみ(教会の人々)は自分を義とするために彼らなりの聖化に依存している・・・彼らの誠実さ、最近の宗教的な行為や、彼らの意識的、意図的な不従順が比較的少ないことから、自分は神に受け入れられるという保証を引き出すのである。ほとんどの人々は毎日をルターの土台の上に立つことから始めることを十分に知らないのである:

あなたは神に受け入れられていること、信仰において外を見ながら、全く外的なキリストの義を自分のものとしながら、神に対する信頼の中で安らぐことを通して、信仰が愛と感謝において活き活きとしつつ、ますます聖化が成し遂げられていくのである。

教会の人々の中で聖化の歩みが欠如していると言うことの多くは、現実的に義認の働きを受け入れることが十分ではないことから来るものである。

キリストにあって神がクリスチャンを愛しておられ、受け入れて下さるということをもはや確信していない人々は、彼らの現在の霊的な達成感を別として、無意識的に極度に不安な人々である。彼らの不安感はプライドや、激しく、防衛的に彼ら自身の義を肯定しようとするところや、他者を批判する態度に現れる。彼らが自然とほかの文化スタイルや、他の人種を憎むようになるのは、彼ら自身の安心感を高めるためであったり、彼らの抑圧された怒りを発散するためである。

言い換えれば、人々が自らの人生を福音の上に築かない時、彼らは不安で、罪責感にさいなまれ、防衛的で、争い好きで、頑固で、わがままで、内向きで、恐れているのである。このことは教会を死に導き、成長することができなくなる。

福音が明確に語られ、宗教的道徳主義と福音、一般常識と真の美徳の違いが明らかにされることなしには、キリスト教会は単に一般常識が形作られるもう一つの場所に過ぎなくなるだろう。このことが、教会であまりに多くの陰口がささやかれ、党派争いが起きる一つの原因になっている。外面的な道徳的行為の底には、沸き返る不安感や恐れ、痛々しい自己中心、そして容易に傷つくプライドなどがあるのである。

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