リビングストーン教会礼拝説教
主題:福音を失う時

そうです。神の義とは何でしょうか?それは神の完全な基準です。神は旧約、新約聖書を通して、神の聖さ、神の正しさが何であるのかを示されました。私達人間には到底たどりつけない、あまりにも高い基準を示されました。もちろん、ファリサイ派や律法学者はそれを守ろうと努力しました。パウロもそうでした。しかし、神の義は、人間の努力や熱心で手にいれることができるものではありません。

エレミヤ17:9人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか。

だからこそ、私達には『救い主』が必要です。その方がキリストです。そして、キリストこそが『神の義』です。そしてキリストこそが『福音、良き知らせ』です。

なぜなら、その方は33年間の生涯を通して、神の義を示されました。全ての誘惑に打ち勝ちました。全ての人々を神の愛で愛しました。そして、十字架の死に至るまで、父なる神の御心に従いました。未だだれも成し遂げたことがない、神の正しい基準、神の義に完全に従った人生を歩みました。

私達の行いが神の義を手にすることはできません。神の義は、イエス・キリストの全ての人生を通してそれを現して下さったからです。私達はどうすれば、キリストが表された神の義を手にすることができるでしょうか?ただ、そのイエスをキリスト、私の救い主と信じることを通してです。

これが福音を通して示された神の義であるキリスト、福音であるキリストです。これが、ルターが発見した、新しい『神の義』に対する考えでした。

ここで、誤解しないで欲しいのは、聖書とは、新しいものを発見することではないということです。むしろ再発見という言葉がもっと相応しいはずです。なぜなら、聖書の真理は、それが書かれて完成した2千年前から、既に世に明らかに示されているからです。

イエス様はルターが悟った、ただ『信仰のみによって義とされる』「信仰義認」について知らなかったでしょうか?もちろん知っています。パウロやペテロ、ヨハネはどうですか?もちろん知っています。初代教父のアウグスティヌスももちろん知っています。

私達はどうですか?もちろん、私達も知っています。私達プロテスタントのクリスチャンは、最初から信仰のみによって神の前に正しいとされると学びました、そしてそう信じています。しかし、中世の暗い時代はそうではなかったということなんです。  

キリスト教はAD392年にローマ帝国の宗教になり、ヨーロッパ全土はキリスト教化されました。それ自体は素晴らしいことです。しかし、その後に国家権力と宗教が結びつきました。もちろん、ヨーロッパの全ての人々の信仰が守られました。ヨーロッパ全土に教会が立てられ、礼拝が捧げられました。最初は素晴らしいものでした。

しかし、徐々に教会が世俗化していきました。人間が作った教皇の制度が神の言葉である聖書よりも上回りました。聖書がラテン語だけで書かれ、民衆は一文字も読めず、宗教指導者の特権階級になりました。人々はカトリック教会に教えられるままに、洗礼を受けることで罪から清められ、罪を犯した時は教会に来て、罪を告白することで赦されると教えられました。

また、罪を償う為、自分自身を清めるためのあらゆる霊的な訓練もしました。しかし、それは人間の罪を清めることはできません。そのようにして、人々は信仰によって生きるのではなく、人間の行いを通して、神に受け入れられるように考えてしまいました。その時から、キリスト教信仰の命は失われます。

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