高田馬場リビングストーン教会説教
待つことと、待ち望むことの違い

 カトリックの司祭でありながら、プロテスタントのクリスチャンにも大きな影響を与えたヘンリ・ナウエンの「待ち望むということ」という本があります。そこでナウエンはこのように語ります。 現代社会は待つ事を困難にしました。待てない理由は、恐れがあるからだ。変わり続けなければいけない、攻め続けなければいけないという強迫観念がわたしたちの時代にはあり、そのことが、待つ事への恐怖を大きくしている。自分自身も、その恐れによって「待てない」ということがしばしばあります。 

何もせずにいることと「待ち望む」こととは大きく違う。『待っている人々はとても積極的に待っています。彼らは、待ち望んでいるものが、自分たちが今いるところで育ちつつあることをよく知っていました。まさにここに、待つことの秘訣があります。』 未来を自分の思い通りにコントロールしようとする「願望」は、それが叶わないことへの恐怖を生み、待つ事を難しくする。しかし、神との約束の実現を信頼する「希望」は、未来に対する開かれた態度を生み、待ち望むことに力を与える。待ち望むことは、今を生きることに繋がる。

待つのは辛い。忍耐も必要です。今日の本文にも書かれているように,主が定めた時や時期が私たちにはわからないからだ。しかし,ヘンリー・ナウウェンは言う。待つことの秘訣は、種はすでに蒔かれており、そこに何ごとかが始まっていると信じることです。ナウウェンは他の本では、

『一粒の種が芽を出せるのは,蒔かれた地面にじっとしている場合だけなのである。育っているかどうかを見ようと,しじゅう掘りかえしたのでは,けっして実はむすばない。』とも語ります。自分も豊かな土に蒔かれた一粒の種だと考えてみればよい。私たちはただ(中略)自分の成長に必要なものはすべて土に含まれていると信じていればよいのである。この成長は,自分では感じなくても始まる。(『心の奥の愛の声』 p.46)

そういった意味で、『待ち望む』ことは積極的な生き方である。ただし,具体的なもの、「これだけ」というものを求めることは、自己絶対化につながり、神の御心を無視してしまうことになる。主が準備してくださっているものに開かれた態度・生き方で待ち望んでいきましょう。何よりも、私達のような罪人を一番待っていてくださるのは神ご自身であることを忘れてはなりません。

Ⅱペテロ3:8愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。3:9ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。

私達が主を待ち望む前に、主ご自身が私達を待ち望んでおられたことに感謝しましょう。フランシス・チャンというクリスチャンは〝皮肉なことに、神が私達を必要としていないにも関わらず、神は私達を求めているのに、私達は切実に神を必要としているにも関わらず、私達は多くの時間、神を求めていないのです。”と語りました。神は私達を求めておられ、待っておられます。私達もまた、そのような主の忍耐と愛に応えて、主を待ち望みつつ、主の再臨に備える者になりましょう。

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