高田馬場リビングストーン教会礼拝説教
主題:天の婚宴


27節は、主の再臨の時にクリスチャンたちに起こることを示しています。13:27そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」 「四方から」とは、「天の果てから果てまで」と同義です。ここに使われている「集める」という動詞は、ギリシャ語の「スナゴー」(συνάγω)に「エピ」(έπι)という強意の接頭語がついた「エピスナゴー」(έπισυνάγω)という言葉で、単に集めるというよりも、御国の食卓に「招待する、招く」という意味があります。キリスト再臨後には、この地上において、小羊の婚宴が行われるからです。 

黙示録19:7わたしたちは喜び、大いに喜び、/神の栄光をたたえよう。小羊の婚礼の日が来て、/花嫁は用意を整えた。19:8花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この麻の衣とは、/聖なる者たちの正しい行いである。」 

それは、御使いがパトモス島の孤島に囚われている使徒ヨハネに対し「小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ、と書きなさい。」と言ったほどに、喜びの婚宴、祝宴なのです。私達はこの世の破滅と天変地異を不安な心で待つのではなく、神が私達を天国の祝宴に招き、そこでキリストと顔を顔を合わせて出会えることを期待しながら歩むものになりましょう。そして、私達はそのような祝宴に来るようにすでに選ばれ、招かれている者である確信があるでしょうか?私達はなぜ、キリストと伴う天国の祝宴に招かれているでしょうか?その理由は私達の内にありません。相応しい理由や資格を自分自身の中に探すことはできません。それは完全な恵みであり、神の無条件的な選びです。だからこそ、私達は謙遜に神の前に、人の前に低くならなければなりません。事実、私達クリスチャンと、世の人を隔てる特別な違いは何でしょうか?それは聖なる生活でしょうか?教会に対する奉仕や献身、日々の祈りや御言葉の生活でしょうか?実際のところ、私達クリスチャンもまた罪人であるという点を考えて見るときに、また私達が神に選ばれる要素や原因は私達の内に一つもないということを確認するときに、私達信仰者と世の人々を隔てるものは、ただ神の恵みしかないということに気づきます。それゆえに、私達は自らが救われたキリスト者であることを誇ってはならないのです。むしろ謙遜に感謝し、そして未だ福音を知らない人々と同じ目線に立ち、憐れみと愛の心で世に仕えることを通して、人々が同じ救いへと導かれるよう祈る者になりましょう。

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